州都がリッチモンドへ移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/31 14:26 UTC 版)
「コロニアル・ウィリアムズバーグ」の記事における「州都がリッチモンドへ移動」の解説
アメリカ独立戦争中の1780年、トーマス・ジェファーソン州知事の指揮のもとバージニア州の州都は、州中心部に近く交通の便が良いがイギリスからの攻撃を受けにくいおよそ90キロメートル(55マイル)西へ離れたリッチモンドへと移動された。その後現在も州都はリッチモンドのままである。 州都が移転して以来リッチモンドへ移住する者が増え、その後幾年にも亘り、ウィリアムズバーグの植民区域はその周辺に近代的な町並みが建設されるにつれ、ウィリアムズバーグの経済は低迷して長い間忘れ去られていった。18世紀の様相のまま取り残され、1862年、ジョージ・マクレラン少将はここを北軍の駐屯地としたが、ウィリアムズバーグは南北戦争の大きな被害を逃れた。ただし連邦兵士が大学に火を放ち、民家から略奪した[要出典]。20世紀初頭までには、古びたその多くの建物が荒廃した状態になり、もはや使用されてはいなかった。また、その立地が高地で水路から離れた場所にあったせいで、1830年代に建設が始まった初期の鉄道も達していなかった。およそ50年後の1881年、コリス・P・ハンティントンがこの地域を通る新しいチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道を建設した。彼の主な目的は、ウエストバージニア州からニューポートニューズへの石炭の発送と、バージニア半島の南東の端にある、ハンプトン・ローズ入り江の石炭橋脚を通過することにあった。 ウィリアムズバーグでの雇用は東部精神病院(現在は東部州立病院)、ウィリアム・アンド・メアリー大学、そして郡庁舎の3つの施設が頼りであり、「病院の500名の患者が大学街の500名の無職の者を救う」と語られた。植民時代の建造物は南北戦争の幕開けと共に再び改築、近代化、倒壊および忘れ去られた。建物よりも戦争の方が市民にとって大事だったのである。ウィリアムズバーグでは毎年幾つかの南北戦争記念祭が行われ、最も重要な5月5日の祭日は、ウィリアムズバーグの戦いを祝うものであった。1908年5月5日、ウィリアムズバーグは南部連邦軍の兵士や水兵の記念碑を奉納し、公邸前の緑地に設置した。ペニマン近くの綿花プランテーションなどの第一次世界大戦時代の建築の発達と共に自動車が発展してきた。20世紀初頭までに多くの古い建築が老朽化して使用不可能あるいは不法に占拠された。しかしグッドウィンは植民地時代の議事堂だけは復元する価値があると語った。
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