川袋高瀬邸と高瀬通り・江之島水道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 23:44 UTC 版)
「高瀬弥一」の記事における「川袋高瀬邸と高瀬通り・江之島水道」の解説
高瀬弥一は豪壮な鵠沼御殿を嫌い、中藤ヶ谷の屋敷を銀座の豪商・徳力に売却し、江之島電氣鐵道高砂(たかすな)停車場(現在の石上駅)西方一帯を買い占め、南向き斜面3千坪を敷地とする数寄屋造りの瀟洒な屋敷を構え、その下の低湿地に2千坪の池を掘って舟を浮かべた。関東大震災で屋敷は倒壊し、次女を失ったが、火事は起こさなかったため廃材を利用して復興できた。四軒別荘(現在の鵠沼松が岡)で被災した林達夫・芳(弥一の末妹)夫妻が離れにしばらく居住した。藤沢駅から門前を結ぶ道路を建設し、橘通りと名付け、江の島道から門前を通る道路を建設し、高瀬通りと呼ばれた。時は人力車時代から自動車時代へと向かっていた大正末期、藤沢駅と鵠沼海岸を結ぶ自動車道路建設を計画し、地主に呼びかけて鵠沼新道(地主の名を採り高瀬通り - 上郎通り - 宮崎町 - 髙松通り - 小川町 - 熊倉通りと命名)を敷設した。開通間もないこの道路のことは、当時短期間鵠沼海岸に住んだ芥川龍之介の小説「歯車」 の冒頭に描かれている。この道は完成後藤沢町に寄附する予定だったが、町はこれを受け入れず、多額の固定資産税が弥一の財力を急速に奪った。弥一はまた、自宅の井戸水を江の島に送る「江之島水道」を建設した。これは1928年(昭和3年)に東京府の玉川水道株式会社と業務提携を結んだ際に「湘南水道株式会社」と商号を変更、1933年(昭和8年)には神奈川県に買収されて県営水道となり、継続的な収入には結びつかなかった。屋敷と池の5千坪以外の土地は「高瀬住宅地」として分譲され、主に横須賀鎮守府の軍人らが購入した。江口朴郎が少年時代を過ごしたのもここである。また、第一高等学校の校長になった杉敏介も高瀬家の筋向かいに住み、一高時代の恩師との交流も芽生えた。しかし、折からの世界恐慌で、不動産業も行き詰まった。高瀬弥一の晩年は、アルコール使用障害に罹り、悲惨なものだったという。
※この「川袋高瀬邸と高瀬通り・江之島水道」の解説は、「高瀬弥一」の解説の一部です。
「川袋高瀬邸と高瀬通り・江之島水道」を含む「高瀬弥一」の記事については、「高瀬弥一」の概要を参照ください。
- 川袋高瀬邸と高瀬通り・江之島水道のページへのリンク