山崎富栄主導説とその反論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
「太宰治と自殺」の記事における「山崎富栄主導説とその反論」の解説
太宰の死に山崎富栄が決定的な役割を果たしたとの意見は、太宰の死後直後からくすぶっていた。太宰の死後まもなく、太宰は山崎富栄から青酸カリを飲まされて殺されたのだとの臆測が流された。 毒殺説の次に流布されたのが、山崎富栄による絞殺説である。絞殺説を公にしたのは井伏鱒二であった、井伏は検視担当の警視が、太宰の首に紐か縄で絞められた痕があったと語ったとの随筆を発表した。1955年には亀井勝一郎がやはり遺体の検査に当たった警視の談として、太宰の首には紐で絞められた痕が残っており、山崎富栄が太宰の首に紐を巻き付けて玉川上水に引きずり込んだとの随筆を発表した。三枝康高もまた三鷹署の刑事が太宰の死は山崎富栄による他殺と断定したとの著作を発表した。 この山崎富栄による他殺説については、臆測であり思い込みであるとの厳しい批判がなされている。まず村松定孝が三鷹署の警察医として検視に立ち会った医師に直接面談の上、太宰の首に紐で絞められた痕は絶対に無かったとの証言を得て、警察が情報の出所であると主張する絞殺説を批判した。太宰治の研究家として知られる長篠康一郎も三鷹署に取材して、警察部内から他殺、薬物使用説が全く出たことが無いことを確認している。また玉川上水から太宰の遺体の収容作業を行った野原一夫は、太宰の首に絞められた痕など断じて無く、太宰他殺説を唱えた亀井氏や三枝氏は、山崎富栄を殺人者に仕立て上げていると厳しく批判している。そして野原と共に遺体の収容作業に当たった野平健一もまた、太宰の首に紐で絞められた痕などは無く、そのようなことを公言する人物はありもしなかったことを事実のように伝えていると非難している。 太宰を直接的に手をかけたわけでは無いことは認めた上で、心中の主導権は山崎富栄にあったのではないかとの見方もある。太宰研究家の相馬正一は新聞雑誌への連載や自らの全集出版等を手掛けていた状況下で太宰が死ぬ理由に乏しいとした上で、坂口安吾の「不良少年とキリスト」を引用しつつ、山崎富栄の一途な恋情にほだされて死を共にすることになったと見なしている。曽根博義も太宰の文学や人生の底流に自死と安息への願望が流れていることを認めながら、相馬の意見に強い説得力があるとしている。 その一方で山崎富栄の主導説に否定的な意見もある。長篠康一郎は山崎富栄は女としての愛に殉じて太宰との死を選んだとしており、渡部芳紀もまた山崎富栄は死を決意した太宰に従ったとしている。太宰の研究家としても知られた浅田高明は、太宰と山崎富栄との間には自然発生的な愛情があったとしており、太宰にとって死は一種の旅立ちであり、山崎富栄はその太宰の旅立ちに付き添ったとの豊島与志雄の言葉に全面的に同意している。
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