山崎富栄の境遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
太宰治と心中した山崎富栄の父、山崎晴弘は日本初の美容学校である東京婦人美髪美容学校、後のお茶の水美容学校の創始者であった。山崎富栄は次女であったが、長女が早く亡くなったことと、学業等が優秀であったため、美容学校の後継者として美容の基礎技術を教え込まれた。山崎晴弘は銀座の松屋前にオリンピア美容室を開業し、山崎富栄はオリンピア美容室の経営に携わるようになった。 1944年11月、山崎富栄は三井物産社員の奥名修一と結婚する。奥名は結婚後まもなくフィリピンのマニラ支店に転勤となった。夫とともにマニラへ赴任する予定であったが、飛行機の座席の都合でまずは夫のみがマニラへ向かい、山崎富栄は後で現地に向かうことになった。しかし戦況が急激に悪化したため、奥名修一はマニラ到着直後に召集を受け、まもなく戦死する。夫との音信が不通になったためマニラ行きは中止となり、1945年3月の東京大空襲後、母親の実家である滋賀県に疎開する。 終戦後、1946年春に疎開先の滋賀県から戻った山崎富栄は、まず義姉とともに鎌倉市の美容院で働き出した。約半年後の1946年秋、山崎富栄はお茶の水美容学校の卒業生が経営する、三鷹駅前の美容院で働くことになった。鎌倉から三鷹へと転居する山崎富栄は、野川アヤノ宅に借間することになった。美容師として高い技術を持っていた山崎富栄は、三鷹では昼間は駅前の美容院、夜は進駐軍専用のキャバレーに併設された美容室で働き、多くの指名客を集めるようになって収入も増加した。山崎富栄は相当額の貯金をしており、父の山崎晴弘とともに戦災で焼失したお茶の水美容学校の再建を念願していた。
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