居合一家創立
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天保15年1月9日(1844年2月26日)、土佐藩主山内豊熈の時代、居合心掛よろしきを以て、3人扶持を下し置かれ格式 御馬廻末子として召し出され一家を創立。尤も従来の稽古扶持は除かれる。 弘化元年11月(1845年1月)、山内容堂の居合師匠格を勤め、容堂へ『居合根源の巻』ならびに『目録』を伝授する。 嘉永2年12月29日(1850年2月10日)、土佐藩主山内容堂の時代、来年の江戸御供を仰せ付けられる。 嘉永3年3月13日(1850年4月24日)、御補 壱人扶持15石を下し置かれ、分限に入れ置かれる。 嘉永4年12月15日(1852年1月6日)、来年の江戸御供を仰せ付けられる。 嘉永6年12月1日(1853年12月30日)、来年の江戸御供を仰せ付けられ、江戸に於いて仮時御用の助も仰せ付けられ在勤。 安政3年1月9日(1856年2月14日)、積年家芸(居合術)の心懸け厚く弟子導き方が行き届いていることを以て、従来の御補15石の内、10石切府領壱人扶持5石を其の儘下し置かれた。 安政4年5月4日(1857年5月26日)、仮時御用のため、江戸表へ差立てられ在勤中、増御補壱人扶持五石を下し置かれ、尤も分限に入れ置かれ御用間を以て家芸修行方を仰せ付けられ、安政4年6月23日(1857年8月12日)、北山通へ差立てられ、尤も従来下し置かれた御扶持は在勤中、除かれる。 安政6年1月26日(1859年2月28日)、先達って江戸在勤中、他出の砌、不心得の儀これ有の趣き相聞こえ、殊に御侍風俗の儀は常々仰せ付け厚く相心得るべき筈のところ、その儀無く、件の次第、不心得の極みにより、今22日遠慮を仰せ付け置いたものを前躰の如く差免された。 安政6年10月3日(1859年10月28日)、土佐藩主山内豊範の時代、当分、雅楽助様附きを仰せ付けられる。 万延元年4月8日(1860年5月28日)、前土佐藩主山内容堂御業前に相見仰せ付けられたが差免、従来下し置かれていた御補扶持も除かれた。 文久2年3月20日(1862年4月18日)、吉田東洋の藩政改革により芸家制廃止となる。このとき廃止された居合術家は、山川久蔵幸雅(馬廻末子3人扶持切府5石)、谷村亀之丞自雄(小姓組3人扶持切府10石)、下村茂市(小姓組3人扶持切府10石)である。 同年4月、文武館が完成。のちの「致道館」の前身。 文久2年4月8日(1862年5月6日)、吉田東洋が暗殺される。 文久2年6月4日(1862年6月30日)、芸家制復活により、亀之丞の嫡男・谷村彜吉自脩(つねきち よりなか)が、「居合術導役」を仰せ付けられ、5人扶持を下し置かれたが、同年8月17日(太陽暦9月10日)自脩は病死。 文久2年10月3日(1862年11月24日)、嫡男の早世から2ヶ月後、亀之丞自雄も病死した。法名は義山良忠信士。享年63歳。 墓所は高知県高知市・筆山皿ヶ峰の西南斜面にある。
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