居合一家創立とは? わかりやすく解説

居合一家創立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:29 UTC 版)

谷村自雄」の記事における「居合一家創立」の解説

天保15年1月9日(1844年2月26日)、土佐藩山内豊熈時代居合心掛よろしきを以て、3人扶持下し置かれ格式 御馬廻末子として召し出され一家創立。尤も従来稽古扶持除かれる弘化元年11月(1845年1月)、山内容堂居合師匠格を勤め、容堂へ『居合根源の巻』ならびに目録』を伝授する嘉永2年12月29日(1850年2月10日)、土佐藩山内容堂時代来年江戸御供仰せ付けられる。 嘉永3年3月13日(1850年4月24日)、御補 壱人扶持15石を下し置かれ分限入れ置かれる嘉永4年12月15日(1852年1月6日)、来年江戸御供仰せ付けられる。 嘉永6年12月1日(1853年12月30日)、来年江戸御供仰せ付けられ江戸に於いて仮時御用の助も仰せ付けられ在勤安政3年1月9日(1856年2月14日)、積年家芸(居合術)の心懸け厚く弟子導きが行届いていることを以て従来の御補15石の内、10石切府領壱人扶持5石を其の儘下し置かれた。 安政4年5月4日(1857年5月26日)、仮時御用のため、江戸表差立てられ在勤中、増御補壱人扶持五石下し置かれ、尤も分限入れ置かれ御用を以て家芸修行方を仰せ付けられ安政4年6月23日(1857年8月12日)、北山通差立てられ、尤も従来下し置かれた御扶持在勤中、除かれる安政6年1月26日(1859年2月28日)、先達って江戸在勤中、他出の砌、不心得の儀これ有の趣き相聞こえ、殊に御侍風俗の儀は常々仰せ付け厚く心得るべき筈のところ、その儀無く件の次第不心得極みにより、今22日遠慮仰せ付け置いたものを前躰の如く差免された。 安政6年10月3日(1859年10月28日)、土佐藩山内豊範時代、当分、雅楽助附き仰せ付けられる。 万延元年4月8日(1860年5月28日)、前土佐藩山内容堂御業前に相見仰せ付けられたが差免、従来下し置かれていた御補扶持除かれた。 文久2年3月20日(1862年4月18日)、吉田東洋藩政改革により芸家制廃止となる。このとき廃止され居合術家は、山川久蔵幸雅(馬廻末子3人扶持切府5石)、谷村亀之丞自雄(小姓組3人扶持切府10石)、下村茂市(小姓組3人扶持切府10石)である。 同年4月文武館が完成。のちの「致道館」の前身文久2年4月8日(1862年5月6日)、吉田東洋暗殺される文久2年6月4日(1862年6月30日)、芸家制復活により、亀之丞の嫡男谷村彜吉自脩(つねきち よりなか)が、「居合術導役」を仰せ付けられ、5人扶持下し置かれたが、同年8月17日(太陽暦9月10日)自脩は病死文久2年10月3日(1862年11月24日)、嫡男早世から2ヶ月後、亀之丞自雄も病死した。法名義山良忠信士享年63歳墓所高知県高知市筆山皿ヶ峰の西南斜面にある。

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