小平事件
小平義雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:14 UTC 版)
1905年(明治38年)1月28日生まれ。子供の頃、吃音症のある友達の真似をしているうちに吃音がうつった。1923年(大正12年)6月に横須賀海兵団に入団、海軍軍人となったが、戦地として赴いた中国(山東出兵)においても婦女暴行や妊婦の殺害などを行っていたという。1929年5月上司への不満を理由に海軍三等機関兵曹として退役。その後小平は結婚したが、浮気相手である女性に子供を産ませていた。1932年(昭和7年)7月、それを知った妻が小平から離れて実家に戻ったところ、逆上した小平は妻の実家を襲撃、鉄棒で義父を殺害し、6人を負傷させた。この殺傷事件で小平は懲役15年の有罪判決を受けたが、二度の恩赦によって1940年(昭和15年)に仮出所した。 逮捕後の取り調べおよび公判での本人質問の際に「戦争の時にわしよりむごいことをした連中を大勢知っていますが、平和なときにわしだけひどいことをした者はいないと思います。全く人間のすることじゃありません」と答えた。 一審から上告審を通して弁護人は小平本人の希望で元司法次官、元大審院部長の三宅正太郎博士が弁護人を務めた。公判時には当時は幅広く許可されていた法廷内での写真撮影及び新聞記者によるインタビューには一切応じず、常に深編み笠を被って顔を隠し続けた他、一審における判決公判時には本人及び三宅正太郎弁護人による『法廷内での写真撮影及び取材活動の一切の禁止』を求める申し立てが裁判長によって認められた。この申立てが認められた事がその後の裁判所内における撮影、録音の禁止、取材活動の制限に繋がったと指摘されている。
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