小倉家について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 02:41 UTC 版)
「大和市下鶴間ふるさと館」の記事における「小倉家について」の解説
旧小倉家住宅の所在した位置は、下鶴間ふるさと館と同じく大和市下鶴間2359番地である。下鶴間は大和市の北部、境川の右岸にあり、かつては相模国高座郡下鶴間村といった。下鶴間村の中央部を東西に矢倉沢往還が貫き、東部には八王子道が南北方面に伸びている。旧小倉家住宅は下鶴間宿の東の端にあたる部分にあり、観音寺や諏訪神社に近く、藤沢方面からの八王子道が矢倉沢往還と一部分合流する交通の要衝でもあった。 旧小倉家住宅は、矢倉沢往還に接して北面に建つ宿場町時代から続く建物である。小倉家について、その歴史は明らかな部分を欠くというが、家伝や本家筋に当たる長谷川家の「家譜」を総合した結果は、次のように想定されている。 小倉家は少なくとも慶安年間(1648年から1652年まで)から続く下鶴間村の旧家であった。小倉家は、1813年(文化10年)に一度断絶した。その後、分家筋からの要請を受けた下鶴間村の名主10代長谷川彦八という人物が、1852年(嘉永5年)3月24日に愛甲郡山際村の梅沢家から婿養子をもらって自分の長女フジと結婚させ、小倉家を再興させた。その翌年、再興した小倉家は長谷川家の分家となっている。 小倉家の家業は雑貨商で、江戸時代末から続いていた。1903年(明治36年)、下鶴間に郵便局が開設されて小倉家の2代目嘉一が初代局長となった。嘉一は6年後1909年(明治42年)3月18日に病死し、同じ地区の高下鷲蔵が郵便局長の職を引き継いだ。ただし、同年9月に小倉家の3代目嘉一が局長に就任している。このとき高下家にあった郵便局舎は、小倉家の主屋の一角に増築する形で移転した。郵便局は1929年(昭和4年)に現在駐在所が位置している地に移転するまで、小倉家の敷地内にあった。 小倉家は4代目になってから金物中心に商いを行うようになり、「金物屋」と呼ばれるようになった。他に長谷川家の新宅という意味からか、通称を「シンタク」といった。小倉家は1961年(昭和36年)に商売をたたんで中央林間1丁目に転居し、当地には主屋などが貸家として残された。
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