専任監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:47 UTC 版)
1957年には設計に白石の意見が取り入れられた広島市民球場が完成。翌1958年は球場完成によりもたらされた潤沢な資金で、森永勝治(熊谷組)・小坂佳隆(法大)・拝藤宣雄(立大)・古葉毅(日鉄二瀬)らを入団させる大補強が行われる。中でも古葉毅(竹識)の入団は、日鉄二瀬の監督で広陵中の先輩でもあった濃人渉から白石への売り込みによるものだった。しかし、4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど序盤から成績は低迷する。三塁コーチャーズボックスで采配を振る白石に容赦ない野次が浴びせられ、ファンから辞任を求める投書が自宅にまで届く有様だった。そのため、シーズン中に球団代表の河口豪に辞任を申し出たが、松田恒次に「新球場が出来て3年は辛抱するよう」説得されたため辞意を撤回し、以降の試合ではコーチ陣の気遣いによりダグアウトで采配を振るった。なお、9月19日の対巨人戦では巨人のルーキー・長嶋茂雄が一塁ベースを踏み忘れて本塁打を取り消され、この1本のためにトリプルスリーを逃している。これは、広島の一塁手・藤井弘が指摘したものだが、藤井は「白石さんに、常日頃からベースを踏んだかどうか確かめなさいと教えを受けていた」と話していた。 1956年から1959年まで4年連続で5位に留まる。1960年に球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(勝率.504、62勝61敗7分)すると、「わたしは地固めしかできないタイプ。家を造る人は他にいる」と言って監督を退任した。なお、後任監督は広陵中の先輩・門前眞佐人だった。
※この「専任監督」の解説は、「白石勝巳」の解説の一部です。
「専任監督」を含む「白石勝巳」の記事については、「白石勝巳」の概要を参照ください。
- 専任監督のページへのリンク