寄田の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 21:12 UTC 版)
寄田という地名は鎌倉時代より見え名田名であり、薩摩国薩摩郡のうちであった。資料上の初見は建久4年(1193年)の「薩摩国諸郡注文」において薩摩郡の分として「是枝名・光富名・成枝名・永利名・寄田名・時吉名」と記載されており、これが寄田という地名の初見であるされている。 中世頃は寄田名の一部が冠岳にある西山寺の寺領となっていた。戦国時代末期には入来院氏の勢力下にあったが、天正2年(1574年)8月に入来院重豊が島津氏への謀反を疑われ、潔白の証として、寄田は清色(かつての入来町)・山田(現在の永利町)・天辰(現在の天辰町)・田崎(現在の田崎町)と共に島津氏に進上しようとしたが、島津貴久は「海辺を少被持候ハてハとて被下在所」として収公しなかった。 貞治7年(1365年)3月、島津師久により新田神社の執印氏(もともと新田神社の官職で、新田八幡社の印を司る)に「寄田野牧」が預けられた。寄田野牧は高江町・久見崎町にもかかるが、寄田町が広い範囲を占めていたため、この名前が冠された。その範囲は大正2年にまとめられた「鹿児島県畜産史」によれば、倉掛山・松尾山・長尾山・小牟禮山・笠山野・神尾野等の山野の六里二町にわたっていた。毎春、島津藩内でも特に良質の馬が生産されたが、島津以前のいつから野牧があったか等は不明とされる。なお、下野敏見の「南九州の伝統文化」によれば、律令の「厩牧令」により、薩摩国府のあるところには必ず牧が設置されているため、古代に遡る可能性が示唆されている。 郷土史によれば、島津家三牧の一つとして寄田牧は名高く、特に良駒を産したという。その牧場は高江の約半分と串木野市羽島の一部を含み、その面積二千余町歩におよび、その周囲に堀を巡らし、外部と遮断されていたもので、昭和初期ごろまでその堀の跡がはっきりと残されていた。 平常牧場の管理に高江村の郷士が当たっており、年一回の駒取の行事の際には高江郷士の剣幕は荒くなり、「馬追の場における喧嘩口論、すべて高江郷士に従うべし」と豪語したという。 駒取りは牧場の東方高江方面より、水引・高城・東郷・隈之城・平佐・永利・樋脇の各郷士が携わり、串木野・市来の郷士が南方、羽島方面より寄田に馬を追い寄せた。その間、馬の逸走を防ぎつつ各郷士ごとに連絡を保つとともに、急速を期すため、郷士の士気の鍛錬となったという。 なお、この放牧場は明治時代まで続いた。このため、町内には馬頭観音社が複数存在する。
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