宮増研究の進展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/29 00:01 UTC 版)
これに着目して宮増研究の先鞭を付けたのが、小林静雄である。小林は1432年(永享4年)の演能記録から、能作者・宮増を同時代の能役者・音阿弥(1398年生)や金春禅竹(1405年生)よりやや年長と推測し、能作者「宮増」は、1の「宮増大夫」と同一人物であり、2の「宮増大夫」をその後継者と考えた。 戦後、北川忠彦は小林の説を継承し、また「雲上散楽会宴」の記述などから、宮増はワキだけでなく小鼓にも長じたと考え、6の宮増兄弟を能作者「宮増」=「宮増大夫」の子孫とした。 こうして小林・北川以降、宮増は永享〜応仁年間に活動した大和猿楽系の小さな座を率いる棟梁であり、旅興行や他座のワキなどを勤めることで生計を立て、役者・囃子方をともにこなしていた人物であるとする説が定着した。 その後竹本幹夫が、5〜8などの「宮増」を名乗った役者たちについての検討などから、宮増姓を名乗る「宮増グループ」と言うべき役者群の存在を提唱した。彼らは大和・伊勢の国境付近を中心に活動し、観世座(時代が下ると金春、金剛などにも)などに所属して鼓打ちなどを勤めつつ、時に一座を組んで旅興行なども行う、独自の立ち位置を持つ有力な猿楽師の一族であっただろうと推測した。 能作者「宮増」はそのグループの棟梁と考えられ、3、4に挙げる小鼓の名人「宮増五郎(大夫)」とも同一人物と見られる。また竹本は『能本作者註文』所引の宮増曲の演能記録などから、5の観世座所属の「宮増次郎五郎」が能作者「宮増」と同一人物である可能性を示した。 これに対して西野春雄は、作風の多様さなどから、能作者「宮増」とは特定の一人を指すのではなく、「宮増グループ」に属する何世代かの作者たちの総称ではないかという説を提示し、永享年間に活躍した宮増大夫はその棟梁にして初代であろうとした。 このように研究は進んだものの、能作者「宮増」の全貌は未だ明らかになっていない。
※この「宮増研究の進展」の解説は、「宮増」の解説の一部です。
「宮増研究の進展」を含む「宮増」の記事については、「宮増」の概要を参照ください。
- 宮増研究の進展のページへのリンク