宮大工矢内匠家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 17:31 UTC 版)
山十邸を普請したのは、半原の宮大工矢内匠家の右仲・左仲・佐文治の3兄弟と言われている。 相模国愛甲郡半原村(現神奈川県愛甲郡愛川町半原)は山間地で、もともと農業だけで生計を立てるのが難しいため、工業が発展したと言われている。その中でも1800年頃から大工として発展したのが半原宮大工矢内匠家とされる。 矢内の姓を名乗る前は柳川姓を名乗っていた。山十邸を普請した右仲は矢内右兵衛高光(1822-1907)で、矢内匠家14代とされる。右仲の次弟とされる左仲は柳川佐仲郎(1823-1892)と名乗り、矢内家の隣の柳川家を継いでいる。 佐文治(1829-1900)は右仲の末弟で、小田原の香川匠家に養子入りし、香川文蔵高之を名乗った。小田原藩のお抱え大工となったが、山十邸建設時には佐文治として棟梁を務めている。
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