宮古競馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 16:34 UTC 版)
宮古では沖縄本島とは異なる歴史が流れている。 明治になると馬が農作業に用いられ、沖縄本島では農民も士族同様に乗馬が行えるようになっていた。しかし宮古は他の地方とは違って、1873年(明治6年)の富川親方規模帳(琉球王府高官の布告)により、依然として農民は乗馬や競馬を禁じられ、禁を犯すとムチ打ち刑となるため、農民による琉球競馬は行われていなかった。しかし、1894年(明治27年)3月になって、1637年から行われた差別的で、過酷な「人頭税」(にんとうぜい)が、やっと国会に廃止を請願できたことで、農民は260年ぶりに人頭税から解放されることになった。それを成し遂げた城間正安、中村十作、平良真牛、西里蒲の慰労祝賀会が行われ、その余興として島内から優れた宮古馬を集め、禁を犯して、宮古島で初めての競馬(宮古方言でヌーマピラス)を催している。宮古島の南西にある「鏡原馬場」での競馬は大変な賑わいであった。梅崎晴光は「悪税が廃止に近づいたとき、宮古農民は禁を犯して喜びを競馬にぶつけた」と書いている。 10年後の1904(明治37)年にやっと人頭税が廃止されると、農業が急速に発展し、農業に用いる宮古馬の数はさらに増えていく。それにともない宮古の各地で農民による競馬が盛んに行われた。競技の走法は「側対歩」(コースキ、カースキと呼ばれる)であり、走る馬は失格となるルールであった。もともと駄馬(荷物を運ぶ馬)として活躍していた宮古馬は、振動が少なく荷崩れをおこさない馬が優秀馬とされていた。 王朝時代から宮古島は沖縄最大の馬の供給地となっていた。江戸時代からは王府や薩摩藩、江戸幕府など権力者に馬を献上するための選定に競馬が用いられていた。このため厳しい生産管理が行われていた。明治から昭和初期の宮古での競馬は、鏡原馬場のほかに、新城、新里、友寄、友利、宮国、比嘉、与那覇、福里の各馬場でも行われているが、沖縄本島とは違い、馬にムチを振るうと失格になる厳格なルールであったとされる。宮古競馬を形容する表現は以下である。 水の入った茶碗を騎手の手のひらにのせて走らせても、水がこぼれなかったという。乗る人に震動を感じさせない絶妙な走法 — 宮古研究第4号・宮古の在来馬 梅崎晴光は「宮古競馬」は王朝時代の精錬された献上馬選定の名残りであると考え、よほど製錬された走りを要求されていたのだろうと推測し、宮古競馬は娯楽的な色彩はなかったと結論付けている。 太平洋戦争後、宮古馬も減少したが、1977年(昭和52年)から平良市熱帯植物園で保護飼育が開始された。1980年(昭和54年)には宮古馬保存会も結成され、毎年7月に与那覇湾サニツ浜において宮古馬による競馬(浜競馬)が「サニツ浜カーニバル」の催しとして開催され、大勢の人で賑わう。 宮古島で初めて農民による競馬が行われた鏡原馬場は、宮古市指定の「史跡 鏡原馬場跡」と登録されている。 「宮古馬」も参照
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