宮中占拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 14:18 UTC 版)
ウィキソースに近作命甲第五八四號の原文があります。 この殺害後、師団参謀の古賀秀正少佐は畑中少佐が起案したと考えられる「近作命甲第五八四号」を各隷下部隊に口頭下達、近衛歩兵第二連隊に展開を命じた。 ただし、古賀少佐がクーデター計画にどの程度積極的に関与したかについてははっきりとしていない。また、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。一方で「近作命甲第五八四号」では戦車中隊を代官町通へ進出させることとされた近衛騎兵連隊(牛込区戸山)は、命令に不審を抱いた連隊長伊藤力大佐が東部軍司令部と連絡を取った結果、出動を見合わせている。 宮内省では電話線が切断され、皇宮警察は武装解除された。玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は第二大隊長北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣および木戸幸一内府は金庫室などに隠れて難を逃れた。 井田中佐は水谷一生近衛第一師団参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍管区(第十二方面軍司令部を兼務)のクーデター参加を求めたが、田中軍司令官と高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。 高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功し、森師団長の殺害を知り畑中少佐らの言動に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造であることを伝えた。 芳賀連隊長はその場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻宮城から退去するように命じた。宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川侍従が兵士と口論になり、第一大隊の若林彦一郎軍曹に殴打されている。殴打した理由について若林軍曹は後日、 「周囲の人間は殺意をもって徳川侍従を包囲しており、このままでは侍従が殺されてしまうと思った。それを防ぐためにとっさに本人を殴り、気絶させることで周囲を納得させた」 と親族に語っており、直接の殺意や害意は無かったと思われる。 宮城を離れた畑中少佐は第一中隊の占領する放送会館へと向かい決起の声明の放送を要求したが、職員の機転によってこれは防がれた。
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