宮中の西太后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 14:00 UTC 版)
西太后が嫉妬深いというのは俗説であり、かつてのライバルであった咸豊帝の側室たちは危害を加えられることなく後宮で生活している。前述の麗妃は咸豊帝の唯一の娘栄安固倫公主を生んだ後、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治、光緒朝には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、清東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。なお栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として、東太后と西太后にかわいがられ、妃の所生の娘であるが皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられている。また、東太后と西太后は恭親王奕訢の娘を養女として宮中で育て栄寿固倫公主とした。また、「四春」と称された4人の寵姫(禧貴人、慶貴人、吉貴人、璷貴人)は、同治、光緒朝に嬪、妃に加封され、平穏な生活を送っている。 一方で西太后は権力への執着が強く、同治帝が西太后の推す慧妃ではなく、東太后の推した阿魯特氏を皇后とした事を忘れず、同治帝の崩御後に、阿魯特氏を死亡させ、また光緒帝に親政を促した寵姫の珍妃を殺害させるなど、自分の地位の脅威となる人物を排除している。
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