定義史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 21:32 UTC 版)
用語「ヨーロッパ」は、歴史が展開する中で使われ方が様々に発展した。地理用語としてのEurṓpēの記録に残る最古の使用法は、エーゲ海の南海岸を指したもので、デロス島のアポローンに捧げられたホメーロス風讃歌にある。初めてヨーロッパとアジアを区分した地図はミレトスのヘカタイオスが作成した。ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』第4章にて、世界がヨーロッパ・アジア・リビアの3箇所に分けられ、その境界はナイル川とリオニ川であることを示唆した。彼はさらに、ヨーロッパとアジアの境界はリオニ川ではなくドン川とする考えもあると述べた。1世紀の地理学者ストラボンも東側の境をドン川と考えた。フラヴィウス家(英語版)の人物の著述や『ヨベル書』では、各大陸をノアから3人の息子たちへそれぞれ与えられたものと記している。そこでは、ヨーロッパはリビアとの境となるジブラルタル海峡のヘラクレスの柱から、アジアとの境となるドン川まで広がる地域としている。 ヨーロッパの文化に言及すると、まず大きく東西2つに分けられ、「西ヨーロッパ」はラテン語とキリスト教世界(英語版)が結合し8世紀に形成された地域となり、ゲルマン民族の伝統とラテン系キリスト教文化の合流と表され、「東ヨーロッパ」は「ビザンティン帝国」となる。これらはイスラム圏と対比することもできる。西ヨーロッパ地域はイベリア半島北部、ブリテン諸島、フランス、キリスト教化されたドイツ西部、アルプスそして北および中央イタリアが該当する。この考えはカロリング朝ルネサンスの影響を受け継いだもので、カール大帝の文化相となったアルクィンの手紙の中に、しばしば Europa の単語が見られる。このような文化的また地理的な区分は中世後期まで用いられたが、大航海時代にはそぐわなくなった。ヨーロッパの定義問題は最終的に、スウェーデンの地理学者兼地図製作者のフィリップ・ヨハン・フォン・シュトラーレンベルク(英語版)が提唱した、水域ではなくウラル山脈を最も重要な東の境とする1730年の案がロシア・ツァーリ国を皮切りにヨーロッパ各国の支持を集め、解決を見た。
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