定義と研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:24 UTC 版)
「郷学」や「郷校」という用語自体は中国古典に由来するものである。江戸時代に設立されるようになった在郷の教育機関について用いられた「郷学」は、多分に儒者たちの憧憬を反映した雅称であった。18世紀後半、庶民教育機関である久世典学館・笠岡敬業館を担った儒者たちが「郷校」を自称したのが早い例とされている。幕末期、水戸藩は領内に設置した庶民教育機関について地名を冠した「○○郷校」という名称を用いた。同時代の公文書では「教諭所」「教戒所」「学館」など多様な用語で称されていた。 明治期に文部省が学制以前の教育についての史料を収集し『日本教育史資料』を編纂した際に、藩立学校・家塾・寺子屋に分類できない学校を「郷学」としてまとめた。これによって現代用いられている「郷学」という概念が創出されることとなったが、多様な性格を持つ学校を含むこととなった。 郷学研究の基礎を築いたのは石川謙である。1927年、石川は『日本教育史資料』に掲載された以上の事例を発掘し、対象による2分類を提唱した。「藩侯の支族又は家老などの采地に建てられた陪臣学問所」と「領内各地の庶民を教育する為に、藩主又は領主が設立したり、又は設立を補助したり設立を嘉納したりした学校」である。石川は第二次世界大戦後まで研究を深め、 学問所としての郷学(閑谷学校) 藩直営の郷学(岡山藩手習所) 民間の郷学(会輔堂、懐徳堂、含翠堂) 官民協力の郷学(伊勢崎郷学) の事例を検討した。 1978年に津田秀夫は「民衆の自主性や内発性が出発点となった公的教育運動」から生まれた郷学に対して「第三種郷学」概念を提唱、1970年代から1980年代にかけて「第三種郷学論争」が展開されるとともに事例研究が進められた。
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