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宗岡氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 05:44 UTC 版)

氏族 > 日本の氏族 >  > 蘇我氏 > 宗岡氏
宗岡氏
氏姓 宗岡朝臣
始祖 蘇我連子
出自 蘇我氏
氏祖 宗岳木村
種別 皇別
本貫 山城国
著名な人物 宗岳木村
宗岡包延
後裔 青木家地下家
山口家(地下家
三宅家(地下家
凡例 / Category:氏

宗岡氏(むねおかし)は、平安時代から室町時代にかけて地下家

代々史生文殿召使などを務めた。宗岳氏とも。

概要

宗岡氏は、元慶元年(877年)に石川木村と箭口岑業が先祖の名(蘇我石川)をもって子孫の氏の名称とするのでは、を避けることができず(避諱)、死後に生前の実名を忌んで口にしない風習に反するとして、宗岳朝臣姓に改姓したのが始まりである[1][2]

延喜5年(905年)4月18日に成立した『古今和歌集』には、宗岳大頼という人物が見える。『古今和歌集目録』によると算博士であったとされ、越国に住んでいたという。大頼が詠んだ歌には「冬河のうへはこほれる我なれや下にながれて恋ひわたるらむ」と「君をのみ思ひこしぢのしら山はいつかは雪のきゆる時ある」があり、後者は凡河内躬恒から贈られた歌への返歌である。

摂関期における宗岳氏の官人は以下の通りである[3]

  • 兼憲(兼興とも、10世紀後半に大蔵史生となっている)
  • 春枝(昌泰元年(898年)に伯耆権大目に任じられた)
  • 経則(延喜5年(905年に大外記に任じられ、同7年に若狭守となった)
  • 大頼(『古今和歌集』に歌が選ばれている)
  • 親宥(大和国の人で、延喜19年(919年)に東大寺別当に補されていて、本姓は宗岡氏とされる)
  • 高助(『今昔物語集』によれば大蔵史生だったとされ、孫の時延も大蔵史生であったと伝わる)
  • 有理(天元年間に常陸介に任じられていた)
  • 為成(正暦5年(994年)に文章生から刑部少録、長徳3年(997年)に権少外記に任じられ、同4年に少外記、長保元年(999年)に大外記へと昇進した。寛弘元年(1004年)には豊前守に任じられた。また、寛仁元年(1017年)には藤原道長の摂政大饗に録事を務め、摂関家とも接近していた)
  • 高兼(長徳2年(996年)に加賀目に任じられ、寛弘3年1006年には美濃掾・左近将曹に進んでいる。長和2年(1013年)の土御門第行幸における競馬では三番に出走して勝ちを収めている。治安2年(1022年)には、左近将監に上っている)
  • 宗岳□時(長徳2年(996年)に駿河掾に任じられている)
  • 滋忠(長徳2年に大舎人番長から和泉権目に任じられている)
  • 数材(長徳3年(997年)、長保2年(1000年)、寛弘2年(1005年)、長和2年(1013年)の相撲召合、相撲節会に出場している)
  • 行利(寛弘元年(1004年)に少判事・権少外記に任じられ、同年に少外記に上っている。翌年には惟宗氏に改姓した)
  • 時頼(寛弘元年(1004年)に主殿少属として見える)
  • 国任(寛弘4年(1007年)に隠岐守に任じられ、長元4年(1031年)に少内記として見える。翌年には権少外記になっている)
  • 時重(寛弘8年(1011年)に主典代内蔵属として一条天皇の葬送に奉仕している)
  • 友光(寛弘8年に伊予目として一条天皇葬送に奉仕している)
  • 数高(万寿元年(1024年)に駿河権介に任じられている)
  • 茂兼(11世紀前半に大蔵史生に任じられている)
  • 光吉(万寿元年に興福寺僧の宅に盗人として入っている)
  • 公能(寛徳元年(1044年)に主計権少允を父・時重から譲られた)
  • 利武(康平4年(1061年)に讃岐目に任じられた)
  • 節基(康平5年(1062年)に美作掾から伯耆掾に転任した)
  • 信良(治暦2年(1066年)に府生、嘉保元年(1094年)に志となっており、近衛府の下級官人を歴任している)
  • 成武(延久4年(1072年)に阿波少目に任じられた)
  • 信貞(応徳3年(1086年)に図書少允に任じられている)
  • 為貞(寛治元年(1087年)に右兵衛少志として見える)
  • 信忠(寛治元年に内舎人として見える)
  • 秀元(承徳4年(1097年)に伊予少目として見える)
  • 信国(康和元年(1099年)に大蔵少録として見える)
  • 為長(康和5年(1103年)に大膳大属として見え、保安元年(1120年)には左兵衛少志に任じられている)
  • 助忠(天治2年(1125年)に伊勢権少掾として見える)

また、宗岳氏は平安京に居住しながら周辺の土地を占営して耕営していた。宗岳兼憲は、山城国紀伊郡に属する、平安京の南に隣接する「十条下石原西外里」と「十一条下佐比里」の合わせて三町余の所領を領有していた[4]

さらに、長元8年(1035年)10月26日の「左近将監秦正近解」によれば、故・宗岳茂兼の財物が9000余石に及んだという[5]

また、宗岳高助は、馬や着物は粗末な「下衆」であったが、「西ノ京」の「堀河ヨリハ西、近衞ノ御門ヨリハ北」に「八戸主ノ家」を構え、「七間ノ屋」や「綾檜垣」を廻らせた「寝殿」を造り、「女房二十人」や「童四人」「下仕・半物」に2人の姫の世話をさせており、姫達の装束は「綾織」な見事なもので、食器も「銀ノ器」でとらせていた。それは「宮原(皇族)ノ有様ニ不劣ズ」、「実ノ吉キ人」に異ならなかったという。この高助のような人間は、官人としての地位は低いものの、「富の力によって貴族的身分を否定するプラグマティックな倫理を所有している商工業者的長者」であった[6]

一方地方では、長和3年(1014年)に和泉国和泉郡上泉郷・坂本郷の山野・荒野25町を宗岳光成が開発し、その永代私有を国衙に申請して許可されている[7]

春日大社蔵「春日神社文書」には、承和11年(844年)11月26日の「河内龍泉寺資財帳写」、同年12月8日「龍泉寺流記資財帳案」、寛平6年(894年)3月5日「河内国龍泉寺氏人等請文案」、天喜5年(1057年)4月3日「龍泉寺氏人連署解状案」という4通の文書が残されている。はじめの3通は来歴が怪しいものの、石川東条の寺敷地、氏人私領家地、古市郡石川郡両郡の山地などを列挙し、それらが古くから宗岡一族の所領であったことを主張している。「龍泉寺氏人連署解状案」の内容は、これらの地は「氏人等の先祖宗我大臣の所領」であったが、承和11年(844年)に氏長者・宗岡公重が強盗によって殺害され、住宅も焼かれて調度や文書も消失してしまい、残った氏人が寛平6年に河内国衙に訴えたのであるが、これらの地が寺領であることは明白なので、天喜5年にもそれを証明してほしい、というものである[8]

「龍泉寺氏人連署解状案」によれば、石川東条の寺敷地300町(現在の大阪府富田林市龍泉、石川の東岸)、氏人私領家地(河内国石川郡紺口郷(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村水分~河南町寛弘寺))、古市郡石川郡・科長郷(現在の大阪府南河内郡太子町太子・春日・葉室・山田)の山地は古くから宗岡氏の所領であったという[9]

宗岳氏が河内国石川郡において盛んな経済活動を行なっていた時期と、河内源氏が同じ地域で勃興した時期とは完全に重なっており、宗岳氏が河内源氏石川源氏の郎党となっていた可能性が指摘されている[10]

のち、氏の表記は宗岳から宗岡に、読みも「そが」から訓読みの「むねおか」に変わった[11]

鎌倉時代以降に見える宗岡氏は以下の通りである[12]

平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活動した宗岡包延は、『地下家伝』によると久安年間(1145年1151年)に召使、史生、行事官として朝廷に仕えていたという。また、建久8年(1197年)に上召使として見える[13][14]

包延以降の宗岡氏は『地下家伝』に系譜が記されている。

実線は実子、点線は養子。
宗岡包延
久安年間(1145年1151年)に召使、史生、行事官、建久8年(1197年)に上召使として見える)
 
 
 
重清
久寿年間)
 
 
 
兼延
治承年間)
 
 
 
吉兼
(養安年間)
 
 
 
兼継
建保年間)
 
 
 
宗職
延慶年間)
 
 
 
重吉
康永元徳年間
 
 
 
行知
貞和年間)
 
 
 
行助
(重吉の末子、貞和年間)
 
 
 
行継
(年不明)
 
 
 
行言
(行助の子、明徳年間)
 
 
 
行寛
(行継の子、応永年間)
 
 
 
行仲
応永年間)
 
 
 
行宣
文明享禄年間)
 
 
 
行為
永正慶長年間)
 
 
 
廉行
(青木藤左衛門以栄の子、母は行為の女、永禄文禄年間)
 
 
 
青木生行
(青木藤左衛門以栄の次男、母は行為の女、元亀文禄年間)

生行の実父が青木藤左衛門以栄であったため、青木家と名乗り幕末まで地下家として朝廷に仕えた[15]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 『日本三代実録』元慶元年12月27日条
  2. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  3. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  4. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  5. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  6. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  7. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  8. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  9. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  10. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  11. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)
  12. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  13. ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[1]』(日本古典全集刊行会、1937年)
  14. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社〈中公文庫〉、2015年)
  15. ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[2]』(日本古典全集刊行会、1937年)



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