如蘭塾の概要
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如蘭塾は1943年5月3日に開塾式が行われ、その際には佐賀県知事や旧藩主鍋島家当主で侯爵の鍋島直映ら約500人が参列した。「教育は国の宝」を理念に「日本婦道の訓育」「日本家庭の実務」を習得させることを目的としており、入塾資格は「満州国民で国民優級学校卒業者にして16歳から20歳までの女性」。カリキュラムは日本語を中心に家事、裁縫、礼儀作法など。家事見習いとしての実習もあり、野中の養親である野中家や昭和グループの創始者である金子道雄などのもとに預けられた。 中国の少女を日本に留学させ、日本の文化や家庭の実状に親しませることによって相互理解を深めるという野中の計画は、満州国にとっても国家プロジェクト的な意味合いがあったとされる。そのため、満州国皇帝溥儀の弟で書家としても知られる溥傑によって書かれ、現在は迎賓館にかけられている「如蘭塾」の書や、満州国奉天省美術協会審査員を務めていた松永南樂による襖絵が今でも残っている。 戦時中の設立のため塾生は43年入塾の1期生29人と、44年入塾の2期生22人の計51人でその短い歴史を終えた。戦後は引き揚げ者の宿舎になったり、芸術活動の場などに使われ、現在は如蘭塾の理念を継承し、中国人留学生への奨学金給付や佐賀県内高校生の中国派遣などの事業を行っている清香奨学会の事務局がある。また、運動場の跡地は武雄競輪場になり、地元の婦人会などが留学生のために1万本の梅を植えて整備した梅林は御船ヶ丘梅林として武雄市の観光名所となっている。
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