夷狄から小中華へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 19:41 UTC 版)
日本では、朝鮮の中華思想を「小中華」というが、それは中国の大中華との対比でそう呼んでいる史料用語に基づく。しかし、韓国では、「小」の字を避けて「朝鮮中華」と呼ぶ人もいる。朝鮮は、中国を中心とした華夷秩序に照らせば、東方の夷狄、つまり東夷となる。本来夷狄である朝鮮が中華になれるのかという根本的な疑問は、両班にとっては解決しておかなければならない問題だった。李氏朝鮮の言論人である張志淵は、四夷のなかで、東夷以外は、漢字表記のなかに「虫」や「犬」に相当する文字が入っているが、東夷(=朝鮮民族)には「虫」や「犬」などの文字が入っておらず、「弓の人」であり、中華の周辺民族とは違い、その独自性・優秀性(=「其性仁善」)を強調している。 爾雅曰,太平之人仁,太平者東海名,即指吾東方也,吾東方之人,其性仁善,故南蠻北狄西戎,皆從虫從犬,惟東方稱夷,夷者弓人也。爾雅に次のようにある。…吾が東方の人は、その性が、仁善であり、南蠻北狄西戎には、皆虫や犬の字が入っているが、ただ東方のみ夷と称している。夷は弓人である。 — 張志淵、朝鮮儒教淵源 唐の文人である韓愈は、中華と夷狄の区別は、居住地や民族に必ずしも関わりなく、中華文明に浴しているか否かが重要と主張しており、出自が東夷の朝鮮の両班は、この主張に強く共感した。 孔子之作春秋也,諸侯用夷禮則夷之、夷而進于中國,則中國之。孔子が『春秋』を作ったとき、出自が中国の諸侯が夷狄の習俗に従ったときは、これを夷狄として取り扱い、出自が夷狄でも中国の文化を慕い、礼を用いるときは、これを中国の諸侯並みに記した。 — 韓愈、原道 李氏朝鮮の儒学者である宋時烈は、朱子学の興隆によって、朝鮮も中華になり得る、否、実は既に中華になっているのだという誇り高い発言をおこなっている。 中原人指我東爲東夷,號名雖不雅,亦在作與之如何耳,孟子曰舜東夷之人也,文王西夷之人也,苟爲聖人賢人,則我東不患不爲鄒魯矣,昔七閩實爲南夷區藪,而自朱子崛起於此地之後,中華禮樂文物之地,或反遜焉,土地之昔夷而今夏,惟在變化而已。『孟子』に、舜も東夷の人なり。文王も西夷の人なり、とある。いやしくも聖人賢人となることができれば、わが朝鮮も鄒魯(孔子・孟子の生地)になり得ないわけはない。昔、福建は閩と呼ばれ南方の夷狄の住む地であった。しかし南宋時代に朱子がこの地から出て以後は、もともと中華の礼楽文物が存在した地も、福建にかなわなくなっている。夷狄の地が中華の地に変化したのである。 — 宋時烈、宋子大全、巻一三一 両班は中華の人、つまり普遍的な価値の体現者として、中華文明に必ずしも浴しているとはいえない庶民に対して優位に立ち、その権威を高めることができた。したがって両班は、自国を更に理想の中華に近づけるため、自身の存在価値をかけて努力した。とくに清が中国支配を安定させて、朝鮮が唯一の中華になって以降は、その努力は徹底さを加え、宗族制度をはじめとして、場合によっては中国以上に理念に忠実な儒教的伝統が確立していった。
※この「夷狄から小中華へ」の解説は、「小中華思想」の解説の一部です。
「夷狄から小中華へ」を含む「小中華思想」の記事については、「小中華思想」の概要を参照ください。
- 夷狄から小中華へのページへのリンク