大津浜異人上陸事件と波紋
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「徳川斉脩」の記事における「大津浜異人上陸事件と波紋」の解説
前代・治紀の文化4年(1807年)に初めて水戸藩近海に異国船が現れて以降、異国船の出没は次第に増えていったが、斉脩の時代、文政6年(1823年)の頃には頻繁になっていた。文政6年(1823年)6月9日から12日にかけて、那珂湊の沖合に国籍不明の異国船が何度も接近し、那珂湊が水戸城へ近いだけに水戸城下は緊張し、藩は海岸の防備を固めた。 翌文政7年(1824年)5月28日、水戸藩領の北端部、付家老中山家の知行地である大津(北茨城市大津町)の浜へ、異人12人が上陸する事件が起こった。上陸の異人を軟禁の上、水戸と幕府に急使が出され、水戸藩兵の警戒の下、幕府代官の到着を待って尋問が行われた。取り調べた結果、はじめロシア人とばかり思われていた異人は、イギリス人の捕鯨船員であり、船内に壊血病者が出ており、新鮮な野菜や水を補給するために上陸したと主張した。幕府はこの主張をそのまま受け入れる形で、野菜や鶏肉、水を与えて船員全員を本船に返した。 しかし、主に藤田幽谷門下の学者は、上陸した異人の真の目的は侵略の準備であるとしてこの対応を弱腰と非難し、水戸藩において攘夷思想の拡がる契機となった。異人の取り調べに筆談役として参加した幽谷門下の会沢正志斎は、事件の翌文政8年に「新論」を著して斉脩に呈上したが、斉脩は幕府の反応を恐れ発表を控えた。しかし非公式に出版され、のちの幕末の攘夷志士に多大な影響を与えることとなる。 また、同じく文政8年、幕府は異国船打払令を発している。
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