大津浜異人上陸事件と波紋とは? わかりやすく解説

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大津浜異人上陸事件と波紋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 03:48 UTC 版)

徳川斉脩」の記事における「大津浜異人上陸事件と波紋」の解説

前代・治紀の文化4年1807年)に初め水戸藩近海異国船が現れ以降異国船の出没次第増えていったが、斉脩の時代文政6年1823年)の頃には頻繁になっていた。文政6年1823年6月9日から12日にかけて、那珂湊沖合国籍不明異国船が何度も接近し那珂湊水戸城へ近いだけに水戸城下は緊張し、藩は海岸防備固めた。 翌文政7年1824年5月28日水戸藩領の北端部、付家老中山家知行地である大津北茨城市大津町)の浜へ、異人12人が上陸する事件起こった上陸異人軟禁の上水戸幕府急使出され水戸藩兵の警戒の下、幕府代官到着待って尋問が行われた。取り調べた結果、はじめロシア人とばかり思われていた異人は、イギリス人捕鯨船員であり、船内壊血病者が出ており、新鮮な野菜補給するために上陸した主張した幕府はこの主張そのまま受け入れる形で、野菜鶏肉与えて船員全員本船返した。 しかし、主に藤田幽谷門下学者は、上陸した異人真の目的侵略準備であるとしてこの対応を弱腰非難し水戸藩において攘夷思想拡がる契機となった異人取り調べ筆談役として参加した幽谷門下会沢正志斎は、事件の翌文政8年に「新論」を著して斉脩に呈上したが、斉脩は幕府反応恐れ発表控えた。しかし非公式に出版され、のちの幕末攘夷志士多大な影響与えることとなる。 また、同じく文政8年幕府異国船打払令発している。

※この「大津浜異人上陸事件と波紋」の解説は、「徳川斉脩」の解説の一部です。
「大津浜異人上陸事件と波紋」を含む「徳川斉脩」の記事については、「徳川斉脩」の概要を参照ください。

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