大津波伝承
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末の松山の八幡社には、大津波伝承が残されており、仙台藩が提出させた『八幡社家御百姓書出』(安永3年(1774年))には、何年の頃に御座候か、当村津波の節、社人ともに利府町へ取り移り候者もこれあり。または連々困窮仕り、沽却禿にまかり成り候」としている。また、明治から昭和にかけての地図や採話においても、末の松山の八幡社が流出したとする「浮八幡」「流れ八幡」「泥八幡」等の伝承が残されている。 「猩々ヶ池」の大津波伝説は『鹽松勝譜』(舟山、1823年) が初出である。昔八幡の酒家に夕方、紅髪朱顔の異人が現れ、数斗の大酒を飲み、どこかに去って行く。村中の悪少年が共謀してこれを辱めることを企て、これを知った酒家の隣の老翁は、異人に告げるも、異人は聞かなかった。謀は異人の帰り道で実行され、異人は瀕死の重傷を負い、翁の家に這ってたどり着き、我が屍は町の東南の池に棄てよ。今から六日後に大津波が来るので、末の松山に登って難を避けよと言い残して死んだ。翁はその通りにすると、六日の後に津波が押し寄せ、翁の一家だけが末の松山に逃れて、助かった。後にこの異人は海から現れる猩々であることがわかり、 猩々ヶ池と呼ばれるようになった。文中、大津波の描写は「驚濤果テ湧キ 湯々トシテ 山ヲ攘子 陵二襄リ ー村漂没シテ 孑遺ナシ」と、 舟山は『日本三代実録』中の貞観津波の描写表現の語彙をそのまま用いており, 『日本三代実録』を下敷きに「猩々ヶ池」の大津波伝説を記述している。昭和(戦前)の採話では、老翁は小佐治(こさじ)という名の美しい娘に姿を変え、猩々は村の若者たちあるいは居酒屋の欲深く腹黒い女房玉芝に殺され、八幡上千軒・下千軒を押し流したという大津波から、小佐治だけが末の松山に難を逃れる物語となっている。また、八幡の末の松山に植え継がれたとされる老松二本は「鍋かけの松」と称され、「この海嘯の時に流れた鍋がかかったからとも云ふ。」としている。 このほかにも、若佐姫命(和賀佐姫命・和賀作比咩神)の社殿が漂着したとする伝承が、多賀城の四至を祀る南宮社に残されている。
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