大津波伝承とは? わかりやすく解説

大津波伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 00:07 UTC 版)

末の松山」の記事における「大津波伝承」の解説

末の松山八幡社には、大津波伝承が残されており、仙台藩提出させた『八幡社御百姓書出』(安永3年(1774年))には、何年の頃に御座候か、当津波の節、社人ともに利府町取り移り候者もこれあり。または連々困窮仕り沽却禿にまかり成り候」としている。また、明治から昭和にかけて地図や採話においても、末の松山八幡社流出したとする「浮八幡」「流れ八幡」「泥八幡」等の伝承残されている。 「猩々ヶ池」の大津波伝説は『鹽勝譜』(舟山1823年) が初出である。昔八幡酒家夕方、紅髪朱顔異人現れ、数斗の大酒飲み、どこかに去って行く。村中の悪少年共謀してこれを辱めることを企て、これを知った酒家の隣の老翁は、異人告げるも、異人は聞かなかった。謀は異人帰り道実行され異人瀕死の重傷負い、翁の家に這ってたどり着き我が屍は町の東南の池に棄てよ。今から六日後に大津波が来るので、末の松山に登って難を避けよと言い残して死んだ。翁はその通りにすると、六日の後に津波押し寄せ、翁の一家だけが末の松山逃れて助かった。後にこの異人は海から現れる猩々であることがわかり、 猩々ヶ池と呼ばれるようになった文中大津波描写は「驚濤果テ湧キ 湯々トシテ 山ヲ攘子 陵二襄リ ー漂没シテ 孑遺ナシ」と、 舟山は『日本三代実録』中の貞観津波描写表現語彙そのまま用いており, 『日本三代実録』を下敷きに「猩々ヶ池」の大津波伝説記述している。昭和戦前)の採話では、老翁は小佐治(こさじ)という名の美しい娘に姿を変え猩々村の若者たちあるいは居酒屋欲深く腹黒い女房殺され八幡千軒・下千軒押し流したという大津波から、小佐治だけが末の松山難を逃れる物語となっている。また、八幡末の松山植え継がれとされる老松二本は「鍋かけの」と称され、「この海嘯時に流れた鍋がかかったからとも云ふ。」としている。 このほかにも、若佐姫命(和賀佐姫命・和賀比咩神)の社殿漂着したとする伝承が、多賀城四至祀る南宮社に残されている。

※この「大津波伝承」の解説は、「末の松山」の解説の一部です。
「大津波伝承」を含む「末の松山」の記事については、「末の松山」の概要を参照ください。

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