大東流普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:27 UTC 版)
一説によると、明治31年(1898年)、霊山神社の宮司をしていた保科頼母から「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、剣術の修行を止めて大東流合気柔術の修行を始めたというが、この伝承史については近年の武術史の研究と調査でほぼ否定されている。 惣角は生涯、道場を持っての教授を行わず、請われれば何処にでも出向き、年齢・出身・身分の差別無く大東流合気柔術の技法を広めた。明治31年(1898年)以降については、英名録と謝礼録という記録が几帳面につけられているため、いつ、どこで、誰に武術を教授したか、かなり詳細な記録がある。また、全国行脚の最中に様々な他流試合や野試合(いわゆるストリートファイト)を行い、大東流合気柔術の実戦性を証明した。 明治37年、北海道を縄張りとし、樺太から東北六県、新潟から東京まで勢力を伸ばしていた丸茂組を単独で制圧する。 大正4年2月、惣角の門人・吉田幸太郎により、植芝盛平が入門。 昭和4年、海軍大将竹下勇が実話雑誌に、「武田惣角武勇伝」を発表。 昭和5年夏、東京朝日新聞記者尾坂与市が取材。「今ト伝」と称する紹介文が新聞に掲載。 昭和11年4月20日、埼玉県浦和警察署で講習会を開催。 昭和11年夏、大阪朝日新聞社の武道教授に就任。
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