大東流合気柔術との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:47 UTC 版)
大東流合気柔術の主張する伝承史によると、西郷四郎の養父である頼母は、武田惣角に会津藩に伝わる大東流合気柔術(合気道の元となった武術)を伝授したとされている。このことから、頼母の養子である四郎も、何らかの形で養父から大東流合気柔術を伝授されたとし、四郎を開祖とする武術団体(西郷派大東流合気武術など)が存在しているが、武術史研究では、四郎が大東流合気柔術を学んだ物的証拠が存在しない。この説は否定されている(詳しくは大東流合気柔術の項を参照のこと)[要出典]。 平成26年、柔道家溝口紀子の論文に、西郷四郎の「山嵐」は古流柔術の背負い落しの変形、足技を組み合わせたと発表した。 西郷頼母研究家牧野登は『会津人群像22号』(2012)に、保科近悳生涯日誌の全人646名に武田惣角、武術指導の記録は確認されていない。大東流の歴史は保科と武田による仮託(創作)と全面的に訂正し、「山嵐」は四郎独自の技と発表した。 池月映は『合気の武田惣角』(2015)、「武田惣角は大東流合気柔術の創始者」(2021)に、保科近悳(西郷頼母)日光東照宮禰宜の写真は身長140センチ、体格、眼力などから武術を長年鍛錬した達人とは思えない。武田惣角に合気柔術を教えた伝承もあるが、修行したとされる霊山寺修験道場は江戸時代以降存在していない。武田惣角に大東流の流派名、歴史、和歌を与えたが、御式内(合気柔術)を教えた証拠はない。合気の意味(由来)は修験道の気合術の気合・合気から引用したものであると発表した。
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