濱口熊嶽
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はまぐち ゆうがく
濱口 熊嶽
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| 生誕 | 濱口熊蔵 1878年12月2日 |
| 死没 | 1943年12月22日(65歳没) 三重県北牟婁郡長島町 |
濱口 熊嶽(はまぐち ゆうがく、1878年12月2日 - 1943年12月22日)は、日本の修験者・祈祷家である。明治30年代から40年代にかけて「人身自由術」あるいは「気合術」なる療法で社会的注目を受けた[1]。
生涯
濱口熊嶽について記した文献・伝記・新聞記事は各種あるものの、『紀伊長島町史』が論じるようにこれらの事実の真偽を立証することは難しい場合もある[2]。
生い立ち
1878年(明治11年)12月2日[3][4](1日とも[5])、三重県牟婁郡長島浦元下町にて誕生する[2]。本名を熊蔵といい、父は長松、母はてつ。8歳で長島尋常学校に入るも11歳で放校となり、その後は網引きとして働く。熊蔵は漁場で経文のような独り言を唱えており、その勢いが強い時には大漁となるとの噂がたった。また、沖の溺死者の場所を当てるといった出来事もあり、長島で熊蔵は神童としてもてはやされるようになった[6]。
13歳のとき、この噂を聞きつけた那智山の実川なる行者に見初められる[6]。熊蔵は1891年(明治24年)3月10日に実家を出奔し[7]、14歳より3年の修行に入ると、熊嶽の名前を授かる[6]。なお、広く語られる熊嶽のこうした経歴については『大阪毎日新聞』が疑問を呈している。同紙の記者によれば熊嶽は長島の漁師であり、同地にて抜歯の術を覚えた。また、四国遍路の最中に行者の術を覚えたという[8]。
気合術の実践
熊嶽は「気合術」なる療法を実践した。気合一声で抜歯やほくろ取りをおこなうという術であり[1]、彼本人はこの術のことを「人身自由術」と呼称した[9]。和歌山に出て[8][10]、病気治しをはじめた熊嶽は支援者にすすめられて1895年(明治28年)に醍醐寺恵印部学林に入学し、真言密教を学んだのち翌年に和歌山・安養寺住職となる[11]。1897年(明治30年)には無資格医療行為に問われるものの、和歌山地方裁判所により熊嶽の術は医療行為ではなく宗教行為にあたるとの判決を受け、無罪となる[12]。1899年(明治32年)より大阪に拠点を移す[11]。10月12日ごろより[13]、天王寺の洞巌寺にて病気治しを行った熊嶽の門前には寿司屋・餅屋・関東煮屋などの出店が立ち並び、繁盛していたという。『大阪毎日新聞』はこの月より熊嶽を弾劾する5回の連載を行った[8]。
同月、天王寺警察署は「神仏に託し妖怪異説を唱え人を眩感せしむる所業を為したるもの」の罪状で熊嶽を拘引する。『大阪朝日新聞』の報じるところによれば、この裁判には熊嶽の信者・不信者ら200人あまりが聴講人として詰めかけ、さらに法廷に入れなかった3 - 400人の大衆が裁判所の窓ガラスを突き破る騒ぎがあった[14]。熊嶽は科料1円25銭の刑となったがこれに検察が控訴し[15]、12月には証拠不十分として無罪判決を受けた。井村宏次によれば、この判決には11月の実地見分で熊嶽が実際に気合術を成功させたことが関わっているという[16]。『大阪毎日新聞』の熊嶽特集記事は「彼の神変不思議と稱するものは、学理上もわけがあって、不思議でも何んでもないが、抜歯術などの妙技は医学界広しといえども、またとない名手、神変に近きこの技芸を医学界ではよく研究せよ」と結んでおり、毎日新聞社社史編集室の田中武文は「よほど怪行者熊嶽の超能力的施術に魅せられたのであろう」と評している。熊嶽の処分については、『大阪毎日新聞』では大きくは報道されなかった[8]。
その後も熊嶽は気合術の実践を続け、天王寺区勝山通りに「大阪施術所」を設けた[17]。1903年(明治36年)には熊嶽のはじめての伝記が出版された[2]。熊嶽の名前は東京・大阪、さらには朝鮮・満州といった外地にも喧伝され[2]、井村宏次は熊嶽の周囲にいた名士として梅ヶ谷・双葉山・東条英機の名前を挙げている[18]。熊嶽は生涯で700回以上の出頭命令・拘置を受け、40回以上の裁判を経験したが、そのほとんどで無罪となっている。井村はこれについて「重要証人の証言」が無罪放免の決定打となったと論じている。たとえば『東京朝日新聞』の報道によれば、1902年(明治35年)に東京であった裁判においては林有造が熊嶽の施術の有効性を訴えた[9]。
財を成した熊嶽は1912年(大正元年)より妻・ふじ子とともに欧米周遊旅行をした。1918年刊行の『三重県史』によれば、熊嶽はこの際「米國唯一の魔法使ひなる者と技を 闘はせ途に莫大なる懸賞金を得た」という[19]。1913年(大正2年)には長島に工費7万円の御殿を建築した。1914年(大正3年)にはシアトルで購入したドッジ・ブラザーズの自動車で、三重県で2人目の自動車登録者となった[20]。また、この年に『紀北新報』を創刊した[21]。これは紀伊長島町域におけるはじめての地方紙であるが、現物は残っていない[22]。熊嶽は1943年(昭和18年)12月22日、長島の邸宅にて肝硬変により死去した[2]。
人物
正式なかたちでは生涯に4度の結婚をし[23]、数名の妾もいた[24]。息子の濱口稔は熊嶽について「日常は普通かそれ以上の俗人であったが、病気治しとなると態度がころっと一変した」と語っている[25]。熊嶽と面談した沖野岩三郎はその印象を「無邪気な一般人であった」と語っている[9]。
評価
熊嶽を報道する新聞記事は1899年(明治32年)ごろより多く現れるが、その多くは彼の所業をセンセーショナルに、面白おかしく書き立てたものである[26]。熊嶽は地元の名士でもあり、三重県においては一時期は尾崎行雄や御木本幸吉とならぶ郷土の偉人として紹介されることもあった[27]。
一方で、特に大正・昭和期にかけては迷信撲滅運動的な潮流もあり、迷信的な人物として多くの誹謗も浴びた[28]。医師であり小説家の森鴎外は、1916年(大正5年)の『寒山拾得』中、閭丘胤が豊干のまじないによる医術を受け入れるくだりにて、「ちょうど東京で高等官連中が紅療治や気合術に依頼するのと同じことである」と記述する。同じく医学者・文学者である斎藤茂吉も、評論「鴎外の歴史小説」にてこのくだりにふれ、「素問、霊枢を知った賢の精神療法に頼らないというのは、現代の高官・富豪などが専門医家に頼らずに素人の濱口熊嶽などに頼るのを風刺したものでもある。これは鴎外が医家だからであろうか」と少々の解説を加えている[29][30]。
同時代的には熊嶽の気合術は催眠術のようなものとして理解された。しかし、栗田英彦・吉永進一は、濱口の施術は本人の主張するよう、近世までの修験術に由来するものであると述べる。とはいえ、井村宏次の論じるように彼は近代日本で隆盛を極める「精神療法の草分け存在」と理解することもでき、栗田・吉永も「やはり濱口は精神療法前期を彩る一人として数えておくべきだろう」とこれに同意している[1]。
出典
- ^ a b c 栗田 & 吉永 2019, pp. 332–333.
- ^ a b c d e 紀伊長島町史編さん委員会 1985, pp. 484–486.
- ^ 井村 1984, p. 57.
- ^ 北村 1982, p. 7.
- ^ 服部 1918, pp. 19–20.
- ^ a b c 井村 1984, pp. 57–58.
- ^ 北村 1982, p. 23.
- ^ a b c d 田中 1975, pp. 174–175.
- ^ a b c 井村 1984, p. 98.
- ^ 北村 1982, p. 61.
- ^ a b 井村 1984, pp. 68–69.
- ^ 井村 1984, p. 71.
- ^ 井村 1984, p. 73.
- ^ 井村 1984, pp. 72–73.
- ^ 井村 1984, pp. 80–81.
- ^ 井村 1984, pp. 88–92.
- ^ 井村 1984, p. 94.
- ^ 井村 1984, p. 108.
- ^ 服部 1918, p. 20.
- ^ 紀伊長島町史編さん委員会 1985, p. 485.
- ^ 紀伊長島町史編さん委員会 1985, p. 468.
- ^ 紀伊長島町史編さん委員会 1985, p. 660.
- ^ 井村 1984, p. 104.
- ^ 井村 1984, p. 97.
- ^ 井村 1984, p. 106.
- ^ 井村 1984, p. 50.
- ^ 井村 1984, p. 105.
- ^ 井村 1984, pp. 96–97.
- ^ 小堀 1981, p. 196.
- ^ 斎藤茂吉全集 1975, p. 59.
参考文献
- 井村宏次『霊術家の饗宴』心交社、1984年。
- 北村博司『奔流 : 浜口熊岳の生涯』紀州ジャーナル社、1982年1月。
- 栗田英彦・吉永進一 著「民間精神療法主要人物および著作ガイド」、栗田英彦・塚田穂高・吉永進一 編『近現代日本の民間精神療法 : 不可視なエネルギーの諸相』国書刊行会、2019年9月、297-384頁。ISBN 978-4-336-06380-9。
- 小堀桂一郎『鴎外とその周辺』明治書院、1981年6月。
- 斎藤茂吉『斎藤茂吉全集』 24巻、岩波書店、1975年。
- 田中武文『社会面変遷史・明治編 : 大阪毎日新聞の紙面を追うて 中』毎日新聞社社史編集室、1975年。2025年10月8日閲覧。
- 服部英雄 編『三重県史 下編』弘道閣、1918年。
- 『紀伊長島町史』紀伊長島町史編さん委員会、1985年8月。2025年10月8日閲覧。
気合術
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