大学専門課程教官時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 07:48 UTC 版)
1976年、亀井は、教養教育担当の助教授から、専門教育担当の〈国文学講座〉の助教授となった。 当時、旧帝国大学系の国立大学では、教養部には近代文学専攻の教員を置いたが、専門教育の〈国文学講座〉には置かなかった。これは、旧帝国大学の国文学講座では近代文学研究を「学問」として認知しなかったためであり、ただ、東京大学だけは例外的に近代文学専攻の教員を1人おいていた。 そのような時期に、亀井は旧帝国大学の後身である北大の〈国文学講座〉の助教授に選ばれた。そこで彼は、自分の役割は、近代文学研究の研究水準を高め、〈学問〉として認知させことにあると目標を定めた。ただしその〈学問〉は、多くの国立大学の教養部の教員や私立大学の教員が志向してきた、文学者の私生活の調査を中心とする〈実証的研究〉や、古典文学研究の考証学・書誌学の亜流的な研究ではなく、日本語表現の研究の歴史と、日本の近代文学の伝統から派生した文学論を統合し、世界的な文学理論と研究方法とを作り出すことである、と考えた。 亀井は北大文学部における教養教育担当と専門教育担当との差別を廃するとともに、国文学講座と同様の問題をかかえた他の講座の改革を含む、文学部全体の改革に努めた。1984年(昭和59年)、北海道大学文学部教授となる。 また、海外との関わりにおいては、1987年に西ドイツ(当時)のルートヴィヒ・マクシミリアン大学(ミュンヘン大学)の客員教授、1995年にアメリカのコーネル大学 Department of Asian Studiesの客員教授となり、日本の近代文学の紹介だけではなく、日本における近代文学研究の紹介に力を傾注した。 他方、1996年には大学院委員、1998年には評議員として改革構想立案の中心となり、1999年に文学部の大学院大学化の目途を立てたのち、2000年(平成12年)、定年退職した。
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