多種多彩の芸人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 08:07 UTC 版)
「快楽亭ブラック (初代)」の記事における「多種多彩の芸人」の解説
1891年(明治24年)3月より快楽亭ブラックを名乗る。その2年後の1893年(明治26年)4月に浅草猿若町菓子屋の娘・日本人女性の石井アカと結婚し婿養子となり、日本国籍を取得。本名を石井貌剌屈と改めた。この国際結婚は日本よりも祖国イギリスでの新聞が大々的に報じ話題になった。その後アカとは離婚している。石井家より婿養子の願いが東京府に出された際、内務省よりブラックの素行調査が指示され、警視庁がそれに当たったが、「ブラックは常に男色を好み、婦女子に対しては不都合なふるまいはなく、一回り年下の高松元助なる男と夫婦同然の暮らしをしており、不品行な形跡はない」との京橋警察署長の報告により、無事入籍及び帰化が許可された。 これ以後、ブラックの八面六臂の活躍が始まる。西洋の小説を翻案した短編小説や、それをもとにした噺を書き出したのを手始めに、やがて自作の噺を創作するようにまでなり、べらんめえ調をあやつる青い眼の噺家として人気を博した。また、高座で噺の最中に手品を見せてみたり、歌舞伎の舞台に端役で飛び入り出演してみたり、1896年(明治29年)には日本初とされる催眠術の実演を行ったりもしている。 1903年(明治36年)に英国グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日すると、ブラックは積極的に親しい芸人を誘って落語や浪曲、かっぽれなど諸芸を録音円盤に録音。これが日本初のレコード録音となる。音質は不鮮明ながら、4代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、初代三遊亭圓遊、3代目柳家小さん、浪花亭愛造、豊年斎梅坊主など明治の名人たちの貴重な肉声が残されることになった。
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