壱志濃王とは? わかりやすく解説

壱志濃王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 07:01 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

壱志濃王(いちしのおう、天平5年(733年) - 延暦24年11月12日805年12月6日))は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての皇族天智天皇の孫である湯原王の第二子。官位正三位大納言従二位

経歴

称徳朝天平神護3年(767年无位から従五位下直叙される。

宝亀元年(770年)伯父の光仁天皇即位すると、他の従兄弟の諸王が春日宮御宇天皇(志貴皇子)の皇孫として二世王待遇となって従四位下叙位を受けるが、壱志濃王は翌宝亀2年11月(772年1月)になってから四階昇進して従四位下に叙せられている。光仁朝において天皇の甥として重きを成し、桓武朝も含めて以下の通り朝廷の重大な祭祀の使者を多く務めた。

またこの間、宝亀9年(778年)縫殿頭、宝亀10年(779年右大舎人頭、宝亀11年(780年)左大舎人頭と京官を歴任した。

従兄弟にあたる桓武天皇とは酒飲み仲間であったと伝えられ、天応元年(781年)の桓武天皇即位後まもなく従四位上に叙され、天応2年(782年)治部卿、延暦5年(786年正四位下への叙任を経て、延暦6年(787年参議に任ぜられ公卿に列した。

延暦12年(793年賀茂大神[8]伊勢神宮[9]平安京遷都を告げる使者に任じられ、同年従三位に叙せられた。その後も延暦13年(794年)中納言、延暦17年(798年)には正三位大納言弾正尹を兼ねる)に昇進し、太政官において右大臣神王に次ぐ位置を占めた。延暦24年(805年)11月12日薨去享年73。最終官位は大納言正三位兼弾正尹。桓武天皇は壱志濃王の死を悲しんで従二位位階贈位した。

人物

豪放な性格で礼法に拘らない人物であった。を飲むとよくしゃべり笑った。桓武天皇と酒を飲んで楽しい気分になるといつも昔語りをし、天皇もこれに満足していたという[10]

子孫

延暦24年(805年)に美海真人姓を賜与されて臣籍降下した田辺王・高槻王[11]を壱志濃王の子であると伝える史料もある[12]

官歴

注記のないものは『六国史』による。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『続日本紀』宝亀9年正月20日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀9年5月27日条
  3. ^ 『続日本紀』天応元年12月17日条
  4. ^ 『続日本紀』延暦元年8月9日条
  5. ^ 『続日本紀』延暦4年10月8日条
  6. ^ 『続日本紀』延暦7年5月4日条
  7. ^ 『続日本紀』延暦9年閏3月11日条
  8. ^ 『日本後紀』延暦12年2月2日条
  9. ^ 『日本後紀』延暦12年3月10日条
  10. ^ 日本後紀』延暦24年11月12日条
  11. ^ 『日本後紀』延暦24年2月15日条
  12. ^ 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年、上巻121頁
  13. ^ a b c d e f g 『公卿補任』

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「壱志濃王」の関連用語

壱志濃王のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



壱志濃王のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの壱志濃王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS