境高校と旭化成時代(1951-1956)
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1951年(昭和26年)、鳥取県立境高等学校に進学すると意気揚々と体操部に入部したが、野球部に力を入れる校風から他のスポーツはあまり盛んではなく、体操器具は不十分で指導者もいなかった。それに加えて高校1年の終わりごろには自らの競技力が向上しないことに焦りを抱くようになっていた。一方で走高跳の実力を買われて陸上競技大会に助っ人として出場、高校2年の5月に棒高跳と出会う。 当時の境高校陸上部には棒高跳の鳥取県高校記録保持者(記録は3m20)がおり、安田が試しにポール(素材は竹)を借りてやってみると、いきなり3mをマークし周囲を驚愕させた。即座に陸上部へ正式入部を勧められたが体操への未練を断ち切れず「助っ人」を続け、中国大会で3mを跳んで4位に入賞、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)出場権を獲得した。インターハイ本番では3回の試技をすべて失敗し、記録なしに終わった。しかしこれをきっかけに陸上部への転部を決意し、冬季練習から本格的に陸上競技を始めた。陸上部監督が「練習の虫だった」と語るほど熱心だった。1953年(昭和28年)の高校3年時には鳥取県大会と中国大会を共に3m30の鳥取県高校新記録で優勝しインターハイに臨んだが、前年同様力んでしまい3m20で予選落ちであった。この年の10月には自身の持つ鳥取県高校新を更新する3m60をマークした。この頃の安田の体格は体重59 kg、胸囲90 cm、上腕囲26 cmであった。 棒高跳の記録向上を体感する中で安田は進路に迷うが、家庭の事情もあり、1954年(昭和29年)、旭化成に就職し宮崎県の延岡工場へ配属される。旭化成陸上部に所属した社会人1年目は3m70、2年目は3m80と記録を伸ばしていく一方で、肉離れや神経痛に悩まされた。この頃はまだ九州の中でも上位の選手というわけではなかったが、寮の自室天井に「日本一」と大書して、出社前の懸垂100回、昼休みの縄跳び、深夜の腕立て伏せ100回と部分強化も怠らなかった。競技に専念したい思いが募り、ついに会社を辞める決心をする。
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