境高校と旭化成時代とは? わかりやすく解説

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境高校と旭化成時代(1951-1956)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 21:37 UTC 版)

安田矩明」の記事における「境高校と旭化成時代(1951-1956)」の解説

1951年昭和26年)、鳥取県立境高等学校進学する意気揚々と体操部入部したが、野球部力を入れ校風から他のスポーツはあまり盛んではなく体操器具は不十分で指導者もいなかった。それに加えて高校1年終わりごろには自らの競技力向上しないことに焦りを抱くようになっていた。一方で走高跳実力買われ陸上競技大会助っ人として出場高校2年5月棒高跳出会う当時境高校陸上部には棒高跳鳥取県高校記録保持者記録は3m20)がおり、安田試しにポール素材は竹)を借りてやってみると、いきなり3mマークし周囲驚愕させた。即座に陸上部へ正式入部勧められたが体操への未練断ち切れず「助っ人」を続け中国大会で3m跳んで4位に入賞全国高等学校総合体育大会インターハイ出場獲得したインターハイ本番では3回試技をすべて失敗し記録なしに終わった。しかしこれをきっかけ陸上部への転部決意し冬季練習から本格的に陸上競技始めた陸上部監督が「練習だった」と語るほど熱心だった。1953年昭和28年)の高校3年時には鳥取県大会中国大会を共に3m30の鳥取県高校新記録優勝しインターハイ臨んだが、前年同様力んでしまい3m20で予選落ちであったこの年10月には自身の持つ鳥取県高校新を更新する3m60をマークしたこの頃安田体格体重59 kg胸囲90 cm上腕26 cmであった棒高跳記録向上を体感する中で安田進路に迷うが、家庭の事情もあり、1954年昭和29年)、旭化成就職し宮崎県延岡工場配属される旭化成陸上部所属した社会人1年目は3m70、2年目は3m80と記録伸ばしていく一方で肉離れ神経痛悩まされた。この頃はまだ九州中でも上位選手というわけではなかったが、寮の自室天井に「日本一」と大書して出社前の懸垂100回、昼休み縄跳び深夜腕立て伏せ100回と部分強化も怠らなかった。競技専念した思い募り、ついに会社辞める決心をする。

※この「境高校と旭化成時代(1951-1956)」の解説は、「安田矩明」の解説の一部です。
「境高校と旭化成時代(1951-1956)」を含む「安田矩明」の記事については、「安田矩明」の概要を参照ください。

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