報道の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:26 UTC 版)
9月16日に母港威海衛から出てきていた戦艦14隻と水雷艇4隻の北洋艦隊は陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、大連湾を離れた。同日大狐山での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた。索敵中の日本海軍の連合艦隊は午前10時過ぎに互いに発見した。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻を前に、連合艦隊司令長官伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻を後ろにする単縦陣をとっていた。12時50分には樺山軍令部長を乗せた西京丸と「赤城」の二隻も、予定と異なり戦闘に巻き込んで、横陣の隊形をとる30.5センチ砲を持つ北洋艦隊の旗艦「定遠」と距離6,000m離れた日本の連合艦隊との戦端が開かれた。海戦の結果、無装甲艦の多かった連合艦隊は全艦で134発被弾したものの、船体を貫通しただけの命中弾が多かったために旗艦「松島」など4隻の大・中破と戦死90人、負傷197人にとどまった。それに対して、装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座した。なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が戦力温存のために威海衛に閉じこもったため、制海権を完全掌握のために威海衛攻略を目指す日本が旅順のある遼東半島付近の制海権をほぼ掌握した。9月21日、海戦勝利の報に接した大本営は、「冬季作戦大方針」の(1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した。その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした。10月8日、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約100kmの花園口に決定した。第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。11月6日に第一師団が金州城の攻略に成功した。14日には第二軍は、金州城の西南50km旅順を目指して前進し、18日に偵察部隊等が遭遇戦を行った。この事件発生は大きく分けて二段階ある。すなわち占領直後とそれ以降である。
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