基金大学への回帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 04:48 UTC 版)
「ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン」の記事における「基金大学への回帰」の解説
その後、大学評議会は集中的な聴聞会を重ねた結果、条件付きで大学を再び基金大学へ転換することを2007年2月14日に決定した。この歩みによってフランクフルト大学は「出資者の伝統」を継続することを目指したのである。大学側にとっての利点は、何より出資者・支援者の数を増やせる可能性が高くなること、そして大学の自治を拡大することができるという点であった。この転換の計画については大学側が出した声明の中に記され、2001年時点での大学発展計画を継続するものであった。その声明では「フランクフルト大学は、2001年の大学発展計画において、幅広い専門分野を基礎に、研究・教育において最高の業績を挙げ、アカデミックの分野においてリーダー的な立場に立つことを目標とする」としている。 計画では、フランクフルト大学の法律的な位置づけを「公法上の基金大学」へ変更することとなっていた。それまでは民法上の基金という形式が議論されていたが、この選択肢は実現不可能として破棄された。 基金大学化に際し、州立大学としてはかなりの自治権をフランクフルト大学に与えているヘッセン州大学法 (§100) の変更も伴うことになったが、最終的にはフランクフルト大学は公法上の基金大学となった後も、州立大学としての地位にも留まること、また法律上の位置づけが変わっても引き続きヘッセン州大学法の統制下にあることが決定された。 大学側が目指したのは、これまたヘッセン州大学法の定めるところからは外れる、大学の諸機関が独自のルールを決定できるようにすることであった。これによって、例えば以下のような分野で自治権を発揮することが可能となった。 学生の選別 教授の任官 品質マネジメント 学生団体の組織 一方で、基金大学に戻ることについては批判の声も多かった。学生代表や労働組合代表などは、大学の法律上の位置づけが変わることで、大学へ寄付をする個人の篤志家たちの影響が強くなり、結果として研究・教育の自由が制限され、偏ったイデオロギーを植え付けられ、また共同研究者たちの労働条件も悪化する可能性があると懸念した。 2008年1月1日をもって、フランクフルト大学は公法上の基金大学へ正式に回帰した。 2008年6月1日より、大学名の主たる表記として「ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン」(Goethe-Universität Frankfurt am Main) を採用するようになった。大学のロゴもこれに合わせて変更された。これにより、格好悪いと思われていた "JWGU" という短縮形は使用されなくなり、ロゴは「Goethe」の部分がさらに強調されたものになった。この変更は2008年末までの移行期間のうちに順を追って実施された。ただし、正式名称は「ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン」のままで変わっていない。 基金大学への回帰に尽力したルドルフ・シュタインベルクは、学長の任期を1期半務めた後、2008年末に退任した。後任の学長として、ヴェルナー・ミュラー=エスタールが選出された。
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