基金大学創立
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「ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン」の記事における「基金大学創立」の解説
大学の創立は、フランクフルトの上級市長であったフランツ・アディッケスの尽力にさかのぼる。アディッケスの希望は、フランクフルトに工業会社を誘致することのほか、文化・教育を支援することであった。この目的のため、アディッケスは大学の設置に結びつく全ての動きを支援した。アディッケスのパートナーとなったのは、メタルゲゼルシャフト(Metallgesellschaft, 今日のGEAグループ)の創立者であるヴィルヘルム・メルトンで、メルトンもやはり、商業と工業だけでなく、社会の豊かさと学問の間にも分かちがたい関係があるという確信を持っていた。こうして、メルトンが資金を注ぎ込んだ社会・商業科学アカデミー (Akademie für Sozial- und Handelswissenschaften) が1901年に創設された。 このアカデミーは、同様に資金提供を受けて設立された他の研究所・施設と並んで、後にフランクフルト大学の母体となる役割を果たすものとなった。ハンナ・ルイーズ・ロートシルト (Hannah Louise Rothschild) が1890年に大学歯科医院(通称:カロリヌム/Carolinum)を開設。11年後にフランクフルト市はは書籍商カール・クリスティアン・ユーゲルの遺産より200万ライヒスマルクの寄贈を受け、これをフランツ・アディッケスはすぐに施設の建設に注ぎ込んだ。さらに、銀行家ゲオルク・シュパイアーの未亡人フランツィスカが、伝染病の研究所を設立するための資金を提供した。この研究所には、後にノーベル賞受賞者となるパウル・エールリヒが1906年に所長として就任している。フランツィスカからの資金によって、大学設立のための資本は1,400万マルク以上にもなり、当時のプロイセン王国においてベルリンと並んで最も設備の整った大学をフランクフルトに設置できる条件が出揃うことになった。 アディッケスとメルトンは、所管するプロイセンの議会やフランクフルト市評議会 (Stadtverordnetenversammlung) の反対に打ち勝ち、1914年に皇帝ヴィルヘルム2世から基金により運営する大学(Stiftungsuniversität, 以下「基金大学」)開校の認可を引き出すに至った。こうして、同年の10月18日に正式にフランクフルト大学が設立された。皇帝は第一次世界大戦勃発のため開校の式典に出席できなかったが、学長のリヒャルト・ヴァクスムートは44名の学生たちを握手で迎え入れた。最初の学期となる1914年の冬学期は50名の教授陣が講義を担当し、618名の学生(うち女子100名)が新たに入学した。画期的だったのはユダヤ人の教授が教鞭をとる初の大学となったことであり、これはその多くがユダヤ人だった出資者たちの強い希望でもあった。
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