執筆と文体とは? わかりやすく解説

執筆と文体

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 02:39 UTC 版)

薤露行」の記事における「執筆と文体」の解説

執筆時期は、おそらく1905年明治38年9月上旬から中旬にかけてで、雑誌中央公論9月号に漱石短編小説一夜』が発表され直後推測される。これに先立つ同年1月には、雑誌ホトトギス」に掲載された『吾輩は猫である』が好評得て連載となっていた。漱石イギリス留学から帰国して2年後38歳のときである。 『薤露行』は「中央公論11月号において発表された。『薤露行』と並んで掲載されたのは、幸田露伴付焼刃』、泉鏡花女客』、中村春雨『岸の灯』であり、江藤によれば、この時点漱石はすでに一流作家として遇されていたとする。翌1906年5月には、『薤露行』を含む7つ短編をまとめた『漾虚集』が刊行された。漱石著書としては、『吾輩は猫である(上)』(1905年10月刊)に続く2冊目となる。 『薤露行』が掲載された「中央公論11月号の前ページ余白には「作者苦心編者苦心」という短文置かれており、これには「漱石氏に至って大方ならぬ苦心をされて、一七日間客を絶って苦吟されたと聞いて居る。」と記されていた。「一七日間」とは「いちしちにち」つまり一週間のことであり、『薤露行』が400字詰め原稿用紙換算しておよそ57-58程度分量であることからすると漱石一日当たり平均8程度割合でこの作品書いたことになる。 「大方ならぬ苦心」について、漱石1906年7月18日小宮豊隆宛てた手紙本作について「しかしあんなものは発句重ねていくような心持ちで骨が折れて行かない」と述べており、和歌詠むように言葉選び苦労したことが窺える高浜虚子宛てた手紙にも、『吾輩は猫である』に比べて薤露行』は5倍の労力かかった述べている。漱石苦心した理由として、本作採用した文体があった。このころ日本の小説現代口語体に近い言文一致体書かれるようになっており、「中央公論11月号に本作並んで掲載された他の3作はすべて言文一致体である。しかし、『薤露行』のみは漢文調を思わせる難解な擬古体で書かれており、江藤によれば「すでに反時代的になりつつあった雅文体」である。

※この「執筆と文体」の解説は、「薤露行」の解説の一部です。
「執筆と文体」を含む「薤露行」の記事については、「薤露行」の概要を参照ください。

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