執筆と文体
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執筆時期は、おそらく1905年(明治38年)9月上旬から中旬にかけてで、雑誌「中央公論」9月号に漱石の短編小説『一夜』が発表された直後と推測される。これに先立つ同年1月には、雑誌「ホトトギス」に掲載された『吾輩は猫である』が好評を得て連載となっていた。漱石がイギリス留学から帰国して約2年後、38歳のときである。 『薤露行』は「中央公論」11月号において発表された。『薤露行』と並んで掲載されたのは、幸田露伴『付焼刃』、泉鏡花『女客』、中村春雨『岸の灯』であり、江藤によれば、この時点で漱石はすでに一流作家として遇されていたとする。翌1906年5月には、『薤露行』を含む7つの短編をまとめた『漾虚集』が刊行された。漱石の著書としては、『吾輩は猫である(上)』(1905年10月刊)に続く2冊目となる。 『薤露行』が掲載された「中央公論」11月号の前ページ余白には「作者の苦心と編者の苦心」という短文が置かれており、これには「漱石氏に至っては大方ならぬ苦心をされて、一七日間客を絶って苦吟されたと聞いて居る。」と記されていた。「一七日間」とは「いちしちにち」つまり一週間のことであり、『薤露行』が400字詰め原稿用紙に換算しておよそ57-58枚程度の分量であることからすると、漱石は一日当たり平均8枚程度の割合でこの作品を書いたことになる。 「大方ならぬ苦心」について、漱石は1906年7月18日付小宮豊隆に宛てた手紙で本作について「しかしあんなものは発句を重ねていくような心持ちで骨が折れて行かない」と述べており、和歌を詠むように言葉選びに苦労したことが窺える。高浜虚子に宛てた手紙にも、『吾輩は猫である』に比べて『薤露行』は5倍の労力がかかったと述べている。漱石が苦心した理由として、本作に採用した文体があった。このころ、日本の小説は現代の口語体に近い言文一致体で書かれるようになっており、「中央公論」11月号に本作と並んで掲載された他の3作はすべて言文一致体である。しかし、『薤露行』のみは漢文調を思わせる難解な擬古体で書かれており、江藤によれば「すでに反時代的になりつつあった雅文体」である。
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