執筆と反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 10:23 UTC 版)
わたしの『スペードの女王』はすっかり流行りっ児だ。賭博者連中は三、七、一と張っている。宮中では、老伯爵夫人がN・P公爵夫人に似ているという評判だが、あの連中も腹を立ててはいないらしい 1834年4月7日の手紙 『スペードの女王』の萌芽は、1819年に創作ノートに書き留められた『ナージニカ』に求められる。その後1828年にゴリツィン公爵から「3枚のトランプ」の話を聞いたプーシキンは、構想段階であった『ナージニカ』とこのアネクドートをもとにした作品を肉付けしていった。そして1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この暴動が起こった土地であるオレンブルクなどをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留した。しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、2ヶ月近く留まることになって時間が生まれる。この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『青銅の騎士』などとともに『スペードの女王』が書かれたのである。そして「読書文庫」紙上で発表され、後に選集にもおさめられたが、原稿は散逸してしまった。発表後すぐに人気を集め、プーシキンが手紙でそれを自賛するほどであった。当時こそ文学として真に評価されていたとはいいがたいが、すぐにベリンスキーやドストエフスキー、フランスではメリメやジイドといった人々に絶賛を受け、現在ではプーシキンの、つまりロシア文学における最高傑作の1つに数えられるようになった。
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