国際弁護士から情報機関員へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:16 UTC 版)
「アレン・ウェルシュ・ダレス」の記事における「国際弁護士から情報機関員へ」の解説
1926年に北京の大使館勤務を突如命じられたことをきっかけに国務省を辞した。国際法律事務所サリヴァン&クロムウェル(Sullivan & Cromwell)に所属し、経営者の一人でもあった兄ジョンからは以前より自分の事務所に来るよう誘われていたが、このときもそれを勧めたジョンに従ったのである。法律事務所といっても、アレンは一般の訴訟を手がけたのではなかった。財閥企業のクライアントの意向に沿って政策をプロデュースするため、国務省とクライアントの橋渡しをすることが求められた任務であった。アレンはロンドン海軍軍縮会議などの国際会議に法律顧問としてアメリカ代表団に随行した。ロンドン軍縮会議後はジョンの命により、ヤング案の締結や世界恐慌に伴うアメリカとヨーロッパの金融取引調整のため、約1年パリにとどまる。このパリ駐在の間にアレンはヨーロッパの金融界とコネクションを築いた。 1940年、OSS(Office of Strategic Services, 戦略事務局 CIAの前身)に入局。1942年から1945年まで、スイスベルン支局長であった。1945年4月には、北イタリアのドイツ軍との停戦・降伏交渉を「サンライズ作戦」として実施し、降伏を実現させた(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)#イタリアの終戦を参照)。続いて当時、亡命ドイツ人でOSSの工作員でもあったフリードリヒ・ハックを介した在スイス日本公使館付海軍顧問輔佐官を務めていた藤村義朗・日本海軍中佐とのルート、およびスイスの国際決済銀行理事のペール・ヤコブソンから同じく国際決済銀行に出向していた横浜正金銀行の北村孝治郎、吉村侃を介した岡本清福スイス日本公使館付陸軍武官と加瀬俊一公使のルートを用いた降伏条件交渉を行った。
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