国立銀行時代
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明治時代初期の国立銀行は、1876年(明治9年)8月の国立銀行条例改正により兌換義務の廃止や紙幣発行の緩和が認められると日本各地で設立が相次ぎ、最終的には153行が誕生するに至った。第百三十九国立銀行もその一つとして発足し、百三十九銀行への改組を経て第四銀行へ統合されるまで、高田地域の金融業界を主導し続けた。 1876年8月、国立銀行条例改正と同時期に行われた秩禄処分により、旧高田藩士1,704人には総額71万1,670円の、旧椎谷藩士34人には総額1万5,330円の金禄公債が交付されたが、これらをもとに旧高田藩士の庄田直道をはじめとした旧高田・椎谷両藩の士族や保阪貞吉(戸野目村)・笠原克太郎(潟町村)など地主ら十数人が、10万円を拠出して国立銀行の設置を計画した。なお、創立に際しては最後の高田藩主であった榊原政敬も資本金に500円寄付している。1878年(明治11年)11月20日に政府から「第百三十九国立銀行」として設立許可が下りて紙幣8万円の発行が認められ、翌1879年2月26日に開業免状が下付され、7月3日に呉服町の森繁右衛門の別邸を借用して本店を置き、営業開始した。当初は頭取以下役員のほとんどが旧高田藩士であり、同行の設立目的は士族授産や金禄公債の保全だったとみられるが、役員は頭取と支配人を除き1882年(明治15年)までに士族層が取締役からすべて退き、代わりに刈羽郡や中頸城郡の大地主が就任するようになった。1886年(明治19年)上期の営業活動の内容は、高田や直江津の町人からの零細預金を地主へ貸し出すことが主であり、それ以外では官公金の取り扱いや砂糖・塩の被仕向けが多かったが、すでに預貸金高において士族の分は1割に満たなくなっていた。 開業した1879年12月には柏崎町(現:柏崎市)に、1882年12月には直江津町(直江津市→現:上越市)にそれぞれ支店が開設されたが、当時の柏崎は活発な商業活動に加えて石油産業が発展しており、直江津は海陸交通の要衝地であったことから両支店の経営は良好であった。資本金は創立時10万円だったのが、1883年(明治16年)までには35万円までに増加した。株主も1879年末には440人だったのが、支店開設による営業地盤拡大を受けて刈羽郡や中頸城郡の地主や商人を新たに株主に迎えることとなり、1884年末には883人と倍増した。同年ころの第百三十九国立銀行は、下越の第四国立銀行、中越の第六十九国立銀行と並んで新潟県を三分する中心的金融機関であった。
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