国立銀行時代とは? わかりやすく解説

国立銀行時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 03:21 UTC 版)

第百三十九国立銀行」の記事における「国立銀行時代」の解説

明治時代初期国立銀行は、1876年明治9年8月国立銀行条例改正により兌換義務廃止紙幣発行緩和認められる日本各地設立が相次ぎ最終的に153行が誕生する至った第百三十九国立銀行もその一つとして発足し百三十九銀行への改組経て第四銀行統合されるまで、高田地域金融業界主導し続けた1876年8月国立銀行条例改正同時期に行われた秩禄処分により、旧高田藩士1,704人には総額711,670円の、旧椎谷藩34人には総額1万5,330円の金禄公債交付されたが、これらをもとに旧高田藩士の庄田直道をはじめとした旧高田椎谷両藩の士族保阪貞吉戸野目)・笠原克太郎潟町村)など地主十数人が、10万円を拠出して国立銀行設置計画した。なお、創立に際して最後高田藩であった榊原政敬資本金500円寄付している。1878年明治11年11月20日政府から「第百三十九国立銀行」として設立許可下りて紙幣8万円発行認められ、翌1879年2月26日開業免状下付され7月3日呉服町森繁右衛門別邸借用して本店を置き、営業開始した。当初頭取下役員のほとんどが旧高田藩士であり、同行設立目的士族授産金禄公債保全だったとみられるが、役員頭取支配人除き1882年明治15年)までに士族層が取締役からすべて退き代わりに刈羽郡中頸城郡大地主就任するようになった1886年明治19年上期営業活動内容は、高田直江津町人からの零細預金地主貸し出すことが主であり、それ以外では官公金の取り扱い砂糖・塩被仕向け多かったが、すでに預貸金高において士族の分は1割に満たなくなっていた。 開業した1879年12月には柏崎町(現:柏崎市)に、1882年12月には直江津町直江津市→現:上越市)にそれぞれ支店開設されたが、当時柏崎活発な商業活動加えて石油産業発展しており、直江津海陸交通の要衝であったことから両支店経営良好であった資本金創立時10万円だったのが、1883年明治16年)までには35万円までに増加した株主1879年末には440人だったのが、支店開設による営業地盤拡大受けて刈羽郡中頸城郡地主商人新たに株主迎えることとなり、1884年末には883人と倍増した同年ころの第百三十九国立銀行は、下越第四国立銀行中越第六十九国立銀行並んで新潟県三分する中心的金融機関であった

※この「国立銀行時代」の解説は、「第百三十九国立銀行」の解説の一部です。
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