第百四十六国立銀行時代
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「廣島銀行 (1897年-1920年)」の記事における「第百四十六国立銀行時代」の解説
第百四十六国立銀行は1879年(明治12年)4月21日、不換紙幣(国立銀行発行券)を発行する銀行として資本金80,000円をもって設立され、同年12月7日に広島区播磨屋町(現在の広島市中区本通)に開業した。当行は広島県下では2番目の国立銀行であったものの国立銀行全体としてみれば最末期の設立であり、開業も設立申請された153の国立銀行の中では最も遅いものであった。初代頭取となったのは高田郡桑田村(現・安芸高田市)の製鉄業者・高杉判右衛門で、広島区および郡部の有力商人や士族が設立に出資したが、10名の設立発起人のなかに広島城下(現在の広島市中心部)の商工業者の参加はなかった。本店は開業後まもなく同区中島新町(現在の中区中島町)に移転した。 発足当初の当行は、尾道・福山の大商人や大地主の出資により当行の倍以上の180,000円の資本金で設立された第六十六国立銀行と異なって経営は不安定であり、払込未済分は30,000円に達していた。そのため1881年(明治14年)には広島県庁の指導下に入り、県の官吏である亀岡勝知が支配人となってからは広島の有力商人が経営に参加するようになり、漸く軌道に乗ることとなった。また1884年に始まった宇品築港事業に対しては、全国の市場に直結する輸送網のインフラ整備という観点から積極的に支援を行った。 1882年(明治15年)の日本銀行条例および日本銀行開業にともなって日銀に紙幣(銀行券)発行の権限を集約する動きが進むと、1886年5月には国立銀行条例が再度改正され、すべての国立銀行に対し設立免許後20年を期限に、それまで発行した銀行紙幣の償却が義務づけられた。これに加え、1896年(明治29年)には国立銀行営業満期前特別処分法の制定によって国立銀行の普通銀行への転換が進行したため、当行でも発行紙幣の償却期限を前に普通銀行への転換によって営業の継続を図ることとなった。
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