図柄と復元案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:14 UTC 版)
鎌倉時代の『聖徳太子伝記』や、新繡帳の開眼供養を行った僧定円の『太子曼荼羅講式』に、繡帳が完全に残っていた当時の図柄が説明されている。それによると、繡帳の中心には「四重の宮殿」があり、上方には日と月、左右には鐘と磬(けい)があったという。このうちの「月」は現存繡帳の上段左の区画に残っており、鐘と磬のうちの鐘は、下段右にある鐘撞き堂がそれにあたると推定される。 その他にも、元の図様を復元する手がかりになる断片がいくつか残されている。下段左の区画には建物の上下にそれぞれ連珠文を表した水平の帯状区画がある。この部分は繡帳全体を囲む外枠部分を構成していたものと推定される。その上、中段左の区画の下部には4本の水平線と三角形からなる楽譜のような図柄が見えるが、これは天寿国(西方極楽浄土)の宝池を表すものと思われる。その右方と右上方には大きな蓮弁の一部が見えるが、これはその大きさからみて、天寿国の主尊である阿弥陀仏の台座の一部であったものと推定されている。 繡帳の当初のデザインを復元する上で、鍵になるのは上段左の区画である。ここには、パルメット文、鳳凰、亀形、飛雲などが刺繡されているが、これらが刺繡されている台裂は切れ目なく一続きになっており、飛鳥時代の紫色羅である。つまり、前述のパルメット文、鳳凰、亀形、飛雲などは、制作当初の原繡帳においても現状と同じ配置になっていたことが確実である。大橋一章は、以上のような手がかりを踏まえ、NHKの協力を得て、コンピュータ・グラフィックスによる再現繡帳を2001年に制作している。その再現案によると、繡帳は縦約2メートル、横約4メートルのもの2帳で、うち1帳には天寿国に生まれ変わった聖徳太子像、他の1帳には阿弥陀如来像をそれぞれ中央に表し、周囲は羅地の上に蓮華化生(れんげけしょう、往生者が天寿国に生まれ変わる様を表したもの)、人物、鳳凰、飛雲、亀形などを配したものである。 人物の服装をみると、男女とも盤領(あげくび)と呼ばれる丸い襟に筒袖の上着を着け、下半身には男子は袴、女子は裳を着けている。また、男女とも褶(ひらみ、袴や裳の上に着けた短い襞状のもの)を着けるのが特色で、これは高松塚古墳壁画の男女像よりも古い服制であることが指摘されている。繡帳にみられるパルメット文と同様の文様は法隆寺金堂釈迦三尊像光背にもみられ、技法、意匠の両面から、原繡帳は飛鳥時代・7世紀の作であることが首肯される。
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