噴火の始まりと経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:45 UTC 版)
前年の1901年にすでに登山者たちがプレー山の噴気活動を目撃している。1902年4月25日、プレー山は噴火活動を開始し4月27日には山頂に直径180mの火口湖が形成され、噴出物が15mの高さに積もった。火口湖からは沸騰するような音がし、硫黄を含んだ火山ガスがサン・ピエールにまで達した。4月30日に付近の川で土石流が発生し、付近の村を飲み込んだ。5月2日午前11時30分、プレー山は地震とともに噴火し、火山灰などの噴出物が島の北部を覆った。火山灰などに汚染された植物を食べた家畜が死亡するようになった。5月3日に降灰は北の方に積もるようになりサン・ピエールへの降灰は一時少なくなったが、翌日には一転して増加。サン・ピエールとル・プルシュール(フランス語版) 地区との交通は遮断され、激しい降灰のために船の運航は難しくなった。 5月5日月曜日に噴火は一時落ち着いたが、午後1時頃に突然海岸線が約100mも後退した後に激しく押し戻され、付近の都市は水に浸かった。一方、山の西部からも噴煙が上がり始めた。同日、山頂の火口湖の一部が崩落して火山泥流がブランシュ川(スペイン語版) に押し寄せ、付近の村の住民約150名が犠牲となった。生き残った町の周辺の人々は安全を求めてサン・ピエールに流入した。翌6日の午前2時頃にも、大音響とともに噴火が起こった。さらに5月7日水曜日の午前4時頃から活発になり、火山の火映によりオレンジ色に染まった火山灰が山全体に降り注いだ。その日の間に多くの人々が町を脱出した一方で、町で噴火をやり過ごそうとした周辺からの住民が殺到したので、サン・ピエールの人口は数千人増加した。 11日にサン・ピエールの市長選挙が行われる予定だった事もあり、新聞はあくまでサン・ピエールは安全であると主張した。 同日には南のセントビンセント島のスフリエール山が噴火し、火砕流により1680人が死亡。当局はこれによりプレー山への圧力が解放されたと発表し住民らを安心させた。事実、山の活動も落ち着いたように見えた。
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