噂と伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 03:46 UTC 版)
国王の娘たちを乗せた船が、トロワリビエールやモントリオールに向かう前にケベックに着いたため、ケベックの入植者たちは最初に彼女たちを選ぶ権利を与えられた。今も、ケベックシティの女性は、他の都市に比べて美人が多いと言われている。しかし、いくつかの文献によれば、彼女たちは見た目の魅力ではなく、むしろ、植民地の生活に耐えられること、子供を産める体であることを優先されたとされている。 国王の娘たちという発想は、17世紀の計画当初において、その実態は売春婦であったというよからぬ噂がある。恐らくは、その当時も、近代になってからも、誤った考えが新大陸のフランス植民地から発信されたせいであると思われる。この噂の一因は、最初の国王の娘たちが移民した頃、カナダは受刑者の巣窟であったと言う考えが定着していたためである。同時に、16世紀半ばに、フランスの犯罪者の記録を抹消する代わりに、カナダに送ろうという運動もあった。この2つはいずれも長続きせず、カナダは「モラルに問題のある土地」であるという見方を、何らかの理由でどうにか植え付けた程度だった。加えて、17世紀には、売春婦や女性犯罪者が、フランス領西インド諸島やルイジアナにやらされていて、一般には、フランス領の新大陸には、間違いなく売春婦が送られていると何かにつけて考えられていた。とりわけ、売春婦である国王の娘たちによって人口を増やすと言う考えは、ヌーベルフランス滞在中の男爵ラ・オントンの証言で知ることができる。サン=アマン、タユマン・デ・レオー、そしてポール・レジュンもラ・オントンと同様の発言をしているが、証拠とされる文献はそれよりも前のものである。ラ・オントンの証言によれば、彼女たちは「普通の貞操観念」を持った女性たちであり、宗教の上での赦しを求めてカナダに渡ったのだとみなされていた。しかしながら、ラ・オントンのこの言葉は、早くも1738年にはクロード・ル・ボーから、1744年にはピエール・フランソワ・グザヴィエ・ド・シャルルヴォワから、国王の娘たちの渡航関連の文献で否定されている。 ペートル・ギャニエによれば、カリブ海にいた女性がカナダに行ったという記録はない。カナダでの売春行為で告発されたのは、800人近い「国王の娘たち」で唯一、カトリーヌ・ギシュランのみである。1675年8月19日、彼女はヌーベルフランス政府(英語版)に、不倫と売春の罪で出向いた。2人の子供は友達の家の養子となり、彼女自身はケベックから追放された。彼女は、夫のニコル・ビュトーが家族を捨ててフランスに戻った後、売春婦になったと言われている。その後彼女は婚外子をたくさん生み、少なくとも2度の離婚をしたとされている。また、ソレルに戻り、更にモントリオールに移住してから、2度結婚したとも言われている。 国王の娘たちはその後、1672年のオランダ侵略戦争の勃発により、ヌーベルフランスの産業の育成共々打ち切られた。
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