問題の極端な難問化と競技人口の減少(1995年 - 2002年)
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学生系問題の代表例 のちにフィラデルフィアの中国博物館に引き取られたが、1854年に火事で焼失してしまったという、内部に人が隠れており、人形を操作することによって動かされた、ハンガリーのケンプレン男爵が考案し、これで巡業した人物の名が付いた、人間相手にチェスを打った機械は何?〔ママ〕A. メルツェルの将棋指し〔ママ〕 第16回マン・オブ・ザ・イヤーの問題 『Quiz Japan vol.13』によれば、「アスワンカップ」以降の実力主義のオープン大会では、「前フリ+中フリ+限定」の三段構成の問題が主流となっていった。また、この頃からそれまでのクイズでは、おおっぴらに出題されることのなかった「不祥事」や「犯罪者」などの問題が出題されるようになっていった。 1997年から200文字以上の極端な長文問題が出題されるようになった。この200文字以上の長文問題の起源について、『Quiz Japan vol.13』では「早稲田大学クイズ研究会の遠藤誠が、長文問題の祖である可能性が高く、長文難問が生まれたのは早稲田」であるとしている。また、1998年頃からは一般常識との乖離が著しくなり、問題の難易度が非常に上がっていった。その最中、1999年に行われたオープン大会「第4回久保杯」で「テレビクイズの女王」と呼ばれていた石野まゆみが招待された。ガチ系オープン大会初参加であった石野は、「久保杯」の予選問題について「それまで見たことがない問題ばかりで、手も足も出なかった」と語ったという。 クイズ界の難問長文傾向が強まるにつれ、主要大会の参加数は減っていった。その背景として、クイズプレイヤーの植田路生は「学生系の発展により、従来よりも難化した問題傾向は、一部のトッププレイヤー以外付いて行く事は非常に厳しく、クイズ初心者にとっては意味不明な物として写っていたのではないか」と語っている。また、徳久倫康は、当時のクイズ番組とは違い正答がほとんど出せない問題ばかりで新規参加者の増加は難しかったのではないかとしている。
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