和泉 (印西市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/02 03:24 UTC 版)
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和泉
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北緯35度49分17.0秒 東経140度7分24.5秒 / 北緯35.821389度 東経140.123472度 | |
国 | ![]() |
都道府県 | ![]() |
市町村 | ![]() |
地区 | 永治地区 |
標高 | 21m |
人口 | |
• 合計 | 265人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
270-1351[2]
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市外局番 | 0476[3] |
ナンバープレート | 習志野 |
※座標・標高は和泉会館付近 |
和泉(いずみ)は、千葉県印西市の大字。郵便番号270-1351[2]。
地理
北は亀成、東は鹿黒、南東は鹿黒南、南は大塚、西は小倉、北西は浦部に隣接している。
歴史
江戸時代は和泉村であり、下総国印旛郡のうち、印西領・印西筋に属す。
寛永年間(1661年~1673年)は幕府領、のち旗本本多氏・八木氏の相給、1701年(元禄14年)から佐倉藩領、1723年(享保8年)から淀藩領、「旧高旧領」では幕府・淀藩の相給。村高は「元禄郷帳」274石余、1707年(宝永4年)・1730年(享保15年)の改増を経て、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに372石余。なお「旧高旧領」に見える幕府領分20石余は、享保年間(1716年~1736年)に開発され、1730年(享保15年)の新田検地により、高請された本村に含められた南新田で、同年検地帳によれば反別畑20町5反余(印旛郡誌)。1723年(享保8年)「淀藩郷村帳」によれば、小物成として夫役永940文余。萱銭永1貫250文を上納(田辺家文書)。1779年(明和9年)明細帳では、家数55・人数292、馬27(武藤家文書)。1873年(明治6年)千葉県に所属。神社は鳥見神社・厳島神社、寺院は天台宗泉倉寺(印旛郡誌)。1889年(明治22年)永治村の大字となる[4]。
年表
- 1873年(明治6年) - 千葉県に所属。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 永治村大字和泉になる[4]。
- 町村制施行し浦部村、小倉村、和泉村、白幡村、浦幡新田、浦部村新田、高西新田、平塚村が合併し永治村が発足。
- 1954年(昭和29年)12月1日 - 印西町和泉になる。
- 1996年(平成8年)4月1日 - 印西市和泉になる。
- 印西町が市制施行し、印西市になる。
世帯数と人口
2017年(平成29年)10月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
和泉 | 103世帯 | 265人 |
施設
- 和泉会館
- 泉倉寺
- 円光院観音堂
- 鳥見神社
- 金刀比羅神社
- 鹿黒機場
交通
バス
脚注
- ^ a b “印西市の人口と世帯数”. 印西市 (2017年11月2日). 2017年11月13日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月13日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年11月13日閲覧。
- ^ a b 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 99頁
- ^ 印西市コミュニティバス「ふれあいバス」 - 印西市、2014-01-01閲覧
- ^ ふれあいバス運行ルート図、2014-01-01閲覧
- ^ 西ルート時刻表(平成25年7月12日改正)、2014-01-01閲覧
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浦部 | 亀成 | ![]() |
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小倉 | ![]() |
鹿黒 | ||
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大塚 | 鹿黒南 |
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「和泉 (印西市)」の例文・使い方・用例・文例
- 和泉市という市
- 和泉という,近畿地方にあった国
- 和泉の国という,昔の行政区分
- 人気狂言師,和泉(いずみ)元(もと)弥(や)さん(28)が和泉流の人たちともめごとを起こしている。
- 10月21日,能楽協会が臨時総会を開き,和泉さんを協会から退会処分とするという決議を下した。
- しかし,和泉元弥さんと,母親で和泉流理事長の和泉節(せつ)子(こ)さんはこの決議を認めなかった。
- 和泉流内部の対立は今年3月に表面化した。
- 和泉さんは流派の人たちの同意を得ないで自らを宗家であると宣言し,商標登録した。
- 和泉元弥さんと彼の母親は「決議は私たちにとって不名誉なこと。名誉を回復しないといけない。」と話している。
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