和泉国の支配者
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天正8年(1580年)8月、佐久間信盛・信栄親子が高野山に追放されると、宿老の信盛が持っていた権限の一部を委譲され、和泉国の支配権を与えられた。ただし頼隆は、丹羽長秀・織田信澄と本願寺門徒が退いた大坂に入り、以後も大坂で活動。11月26日、大坂の邸宅に津田宗及の見舞いを受けた。 天正9年(1581年)2月28日、京都御馬揃えにおいて、丹羽長秀に次ぐ二番手として頼隆は登場し、河内衆・和泉衆・根来衆の一部・佐野衆を指揮した。 4月、和泉で堀秀政を奉行とする検地が行われたが、槇尾寺の寺僧達は検地で寺領の一部が没収されるのを恐れ、村々を占拠し、目録も差し出さなかった。報告を受けた信長は不届きであるとし、「寺僧全員を斬首し、堂塔を焼き払え」と命じたが、21日、秀政は軍勢で威圧して寺僧800余を追い出し、寺僧は散り散りに逃げ去った。 5月10日、織田信澄・頼隆・秀政・松井友閑・丹羽長秀は、無人となった槇尾寺の伽藍を検分して使えそうな部材を取り除いた後、堂塔・寺庵・僧房、経巻に至るまで残らず焼却した。 この天正9年頃、頼隆は岸和田城に移ったと思われるが、天正10年(1582年)1月頃には和泉半国を領したという織田信張も岸和田城を居城にしていたようで、両者の関係性は不明である。 1月、信張が雑賀に出陣した。2月13日、頼隆は野々村正成を雑賀表の検使として岸和田城に受け入れており、7月頃まで居城とした。 2月9日、甲州征伐では、和泉国は紀伊を警戒するように命じられ、信忠が高遠城を落とすと、3月に信長が畿内の軍勢を動員して出陣したのでこれに従うが、武田勝頼・信勝親子は自害したため戦闘には参加せずに終わり、上諏訪に陣をしいただけだった。 同年5月、信長が四国攻めの総大将に三男・神戸信孝を指名した際には、丹羽長秀・頼隆・織田信澄の3名は信孝の補佐として与力とされた。 6月2日、渡海準備中に本能寺の変が起こり、信長が横死して遠征も中止となった。この時、頼隆は岸和田城におり、5日、信孝と長秀が行った明智光秀の女婿であった織田信澄襲撃には関与しなかった。しかし以後も信孝・長秀と行動を共にし、秀吉が東上して来るとこれに合流。13日、信長の弔い合戦である山崎の戦いにおいては、信孝の配下で出陣した。 同年6月の清洲会議において、『太閤記』では頼隆に3万石の加増があったと書かれているが、史実かどうかは不明。7月15日に岸和田城に帰還した。羽柴秀吉と柴田勝家、信孝らが対立した際には、秀吉に味方し、『天正記』によれば、信孝の居城である岐阜城を攻める軍勢に加わっていたという。
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