和泉国の支配者とは? わかりやすく解説

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和泉国の支配者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 11:02 UTC 版)

蜂屋頼隆」の記事における「和泉国の支配者」の解説

天正8年1580年8月佐久間信盛・信栄親子高野山追放されると、宿老の信盛が持っていた権限一部委譲され、和泉国支配権与えられた。ただし頼隆は、丹羽長秀織田信澄本願寺門徒退いた大坂入り以後大坂活動11月26日大坂邸宅津田宗及見舞い受けた天正9年1581年2月28日京都御馬揃えにおいて、丹羽長秀に次ぐ二番手として頼隆は登場し河内衆・和泉衆・根来衆一部佐野衆を指揮した4月和泉堀秀政奉行とする検地が行われたが、槇尾寺寺僧達は検地寺領一部没収されるのを恐れ々を占拠し目録差し出さなかった。報告受けた信長不届きであるとし、「寺僧全員斬首し、堂塔焼き払え」と命じたが、21日、秀政は軍勢威圧して寺僧800余を追い出し寺僧散り散りに逃げ去った5月10日織田信澄・頼隆・秀政・松井友閑丹羽長秀は、無人となった槇尾寺伽藍検分して使えそうな部材取り除いた後、堂塔・寺庵・僧房経巻に至るまで残らず焼却した。 この天正9年頃、頼隆は岸和田城移った思われるが、天正10年1582年1月頃には和泉半国を領したという織田信張岸和田城居城にしていたようで、両者の関係性は不明である。 1月、信張が雑賀出陣した2月13日、頼隆は野々村正成雑賀表の検使として岸和田城受け入れており、7月頃まで居城とした。 2月9日甲州征伐では、和泉国紀伊警戒するように命じられ信忠高遠城を落とすと、3月信長畿内軍勢動員して出陣したのでこれに従うが、武田勝頼・信勝親子自害したため戦闘には参加せず終わり上諏訪に陣をしいただけだった。 同年5月信長四国攻め総大将三男神戸信孝指名した際には、丹羽長秀・頼隆・織田信澄の3名は信孝の補佐として与力とされた。 6月2日渡海準備中に本能寺の変起こり信長横死して遠征中止となった。この時、頼隆は岸和田城におり、5日、信孝と長秀が行った明智光秀女婿であった織田信澄襲撃には関与しなかった。しかし以後も信孝・長秀と行動を共にし、秀吉東上して来るとこれに合流13日信長弔い合戦である山崎の戦いにおいては、信孝の配下出陣した同年6月清洲会議において、『太閤記』では頼隆に3万石加増があったと書かれているが、史実かどうか不明7月15日岸和田城帰還した羽柴秀吉柴田勝家、信孝らが対立した際には、秀吉味方し『天正記』によれば、信孝の居城である岐阜城攻め軍勢加わっていたという。

※この「和泉国の支配者」の解説は、「蜂屋頼隆」の解説の一部です。
「和泉国の支配者」を含む「蜂屋頼隆」の記事については、「蜂屋頼隆」の概要を参照ください。

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