和泉国・河内国の争乱とは? わかりやすく解説

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和泉国・河内国の争乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 01:21 UTC 版)

岸和田治氏」の記事における「和泉国・河内国の争乱」の解説

以降経歴は『岸和田軍忠状』に拠る同年6月19日および30日竹田河原造道六条河原など京都周辺戦った(『岸和田軍忠状』)。 同年8月1日大塔若宮興良親王)が山門出て八幡山数日間祈祷した際、これに供奉した(『岸和田軍忠状』)。 同年8月25日木幡山阿弥陀峰で戦った(『岸和田軍忠状』)。 同年9月1日足利方の畠山国清戦ったが、足利方に押され八木城現在の岸和田市八木地区?)に籠城した(『岸和田軍忠状』)。7日天王寺から中院右少将不明右中将中院定平か)と楠木一族橋本正茂らが援軍に来たため、城中から撃って出て国清を挟み撃ち行ったため国清は撤退し蕎原城(大阪府貝塚市蕎原)に籠城した。治氏らは同城を落とし、国清を敗走させた(『岸和田軍忠状』)。 延元2年/建武4年1337年1月1日河内国中川次郎兵衛入道父子生け捕りにされると、治氏が父子護送した(『岸和田軍忠状』)。8日和泉大鳥郡上神若松荘(現在の大阪府堺市南区若松台?)・玉井彦四郎入道の城・和田荘・菱木などにある北朝方の敵の居住地焼き払った(『岸和田軍忠状』)。26日横山現在の大阪府和泉市横山地区?)を攻め敵の居住地焼き払った(『岸和田軍忠状』)。 同年3月2日河内国古市郡現在の大阪府羽曳野市周辺)に向かい丹下三郎入道西念野中寺の前で破り逃げる敵を丹下城まで追撃し、城を焼き払った(『岸和田軍忠状』)。 同年3月10日足利方が細川兵部少輔細川氏春)と細川帯刀先生細川直俊)を大将として攻めてきたため、和泉守護代大塚惟正の指揮の下、平石源次郎八木法達らと共に野中寺の東で防戦した(『岸和田軍忠状』)。細川勢は撤退したが、治氏らは藤井寺西、岡村北方面まで追撃した(『岸和田軍忠状』)。細川勢は軍を二分して南朝方を攻撃した戦い数刻続き細川直俊戦死するほどの激戦であったが、藤井寺前の大路南朝方が敗れたため、治氏らは撤退した(『岸和田軍忠状』)。 同年8月4日夜、宮里城の合戦で、巻尾寺の弁房らと共に戦い国分寺前で武功挙げた『和田文書』所収和泉国岸和田弥五郎治氏軍忠状延元二年十一月日、以下『岸和田軍忠状 十一月日』と略す)。 同年9月26日から27日夜にかけて、大塚惟正・上卿弥次郎俊康の下、宮里城の攻城戦参加した(『岸和田軍忠状 十一月日』)。 同年10月13日大塚正連の下、巻尾寺に攻めてきた足利方と交戦した15日には大塚正連・八木法達と共に足利方を追い返した19日にも戦いがあった(『岸和田軍忠状 十一月日』)。 兄弟なのか子なのかは不明だが、岸和田定智(じょうち)と岸和田快智(かいち)という岸和田氏の同族上記戦闘一部参戦しており、それぞれの軍忠状現存している。

※この「和泉国・河内国の争乱」の解説は、「岸和田治氏」の解説の一部です。
「和泉国・河内国の争乱」を含む「岸和田治氏」の記事については、「岸和田治氏」の概要を参照ください。

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