和泉国・河内国の争乱
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以降の経歴は『岸和田軍忠状』に拠る。 同年6月19日および30日、竹田河原・造道・六条河原など京都周辺で戦った(『岸和田軍忠状』)。 同年8月1日、大塔若宮(興良親王)が山門を出て八幡山で数日間祈祷した際、これに供奉した(『岸和田軍忠状』)。 同年8月25日、木幡山阿弥陀峰で戦った(『岸和田軍忠状』)。 同年9月1日、足利方の畠山国清と戦ったが、足利方に押され、八木城(現在の岸和田市八木地区?)に籠城した(『岸和田軍忠状』)。7日、天王寺から中院右少将(不明、右中将の中院定平か)と楠木一族の橋本正茂らが援軍に来たため、城中から撃って出て国清を挟み撃ちを行ったため国清は撤退し、蕎原城(大阪府貝塚市蕎原)に籠城した。治氏らは同城を落とし、国清を敗走させた(『岸和田軍忠状』)。 延元2年/建武4年(1337年)1月1日、河内国の中川次郎兵衛入道父子が生け捕りにされると、治氏が父子を護送した(『岸和田軍忠状』)。8日、和泉大鳥郡上神郷若松荘(現在の大阪府堺市南区若松台?)・玉井彦四郎入道の城・和田荘・菱木村などにある北朝方の敵の居住地を焼き払った(『岸和田軍忠状』)。26日、横山(現在の大阪府和泉市横山地区?)を攻め敵の居住地を焼き払った(『岸和田軍忠状』)。 同年3月2日、河内国古市郡(現在の大阪府羽曳野市周辺)に向かい、丹下三郎入道西念を野中寺の前で破り、逃げる敵を丹下城まで追撃し、城を焼き払った(『岸和田軍忠状』)。 同年3月10日、足利方が細川兵部少輔(細川氏春)と細川帯刀先生(細川直俊)を大将として攻めてきたため、和泉守護代大塚惟正の指揮の下、平石源次郎や八木法達らと共に、野中寺の東で防戦した(『岸和田軍忠状』)。細川勢は撤退したが、治氏らは藤井寺西、岡村北方面まで追撃した(『岸和田軍忠状』)。細川勢は軍を二分して南朝方を攻撃した。戦いは数刻続き、細川直俊が戦死するほどの激戦であったが、藤井寺前の大路で南朝方が敗れたため、治氏らは撤退した(『岸和田軍忠状』)。 同年8月4日夜、宮里城の合戦で、巻尾寺の弁房らと共に戦い、国分寺前で武功を挙げた(『和田文書』所収『和泉国岸和田弥五郎治氏軍忠状』延元二年十一月日、以下『岸和田軍忠状 十一月日』と略す)。 同年9月26日から27日夜にかけて、大塚惟正・上卿弥次郎俊康の下、宮里城の攻城戦に参加した(『岸和田軍忠状 十一月日』)。 同年10月13日、大塚正連の下、巻尾寺に攻めてきた足利方と交戦した。15日には大塚正連・八木法達と共に足利方を追い返した。19日にも戦いがあった(『岸和田軍忠状 十一月日』)。 兄弟なのか子なのかは不明だが、岸和田定智(じょうち)と岸和田快智(かいち)という岸和田氏の同族も上記の戦闘の一部に参戦しており、それぞれの軍忠状も現存している。
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