和傘の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:23 UTC 版)
東洋では、傘はまず魔除けなどの目的で、貴人に差しかける天蓋(開閉できない傘)として古代中国で発明され、その後に日本に伝えられ「きぬがさ」(絹笠、衣笠)と呼ばれた。 平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され、安土桃山時代には和紙に油を塗布する事で防水性を持たせ、現在と同じ用途で広く使用されるようになり、ろくろを使って開閉させる事ができるようになった。それと共に傘を専門に製作する傘張り職人が登場して、技術が進歩し、『七十一番職人歌合』には傘張り職人の姿が描かれているほか、奈良の大乗院には唐傘座が組織された。江戸時代になると分業制が発達し広く普及するようになった。 元禄年間からは柄も短くなり、蛇の目傘がこの頃から僧侶や医者達に使われるようになったほか、その広げた際の面積の大きさに着目し、雨天時に屋号をデザインした傘を客に貸与して、店の名前を宣伝してもらうといったことも行われたほか、歌舞伎の小道具としても使われるようになった。「名所江戸百景」(1857年頃)には激しく降る夕立に傘をすぼめて急ぐ町人の姿が生き生きと描かれており、喜多川歌麿の美人画にも傘をさしている町人の姿が多く見られ、このことから当時からすでに生活必需品として広く普及していたことがうかがえる。また、その製作過程は分業化され、江戸時代には失業した武士が副職として傘を製作することもあった。長野県下伊那郡喬木村における阿島傘などはその一例で、今日でも同村の特産品となっている。 しかし明治時代以後の洋傘の普及により、和傘は急速に利用されなくなっていった。現在では雨傘としての利用はほとんどなく、観光地での貸し出しや、日よけ用として旅館や和菓子屋の店先、野点用などに、持ち歩くのでなく固定して利用される程度である。現在では岐阜、京都、金沢、淀江、松山等に少数の和傘製造店が残っている。 和傘の大きさは通常、実用的サイズで製作されるが、一方で大きな和傘の製作も企画などで行われている。昭和38年にはアメリカ企業の依頼で岐阜県岐阜市の「岐阜和傘」が当時日本一となる直径5.7mの和傘を製作、その後、平成元年に長野県喬木村の「阿島傘」が日本一プロジェクトで直径6m、重さ240kgの和傘を製作し日本一を更新、さらに平成14年には大分県中津市の和傘工房・朱夏がイベントで直径10mの「中津和傘」を製作し日本一の大きさとなっている。 「京和傘」、「岐阜和傘」、「阿島傘」、「高松和傘」、および「野点傘」も参照
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