周南・召南
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:19 UTC 版)
国風の初めの二巻、周南十一篇及び召南十四篇を合わせて二南と呼ぶ。 周・召とは禹貢の雍州の岐山の陽(みなみ)の地名であり、周の先公の大王というものが、夷狄からの侵攻を避けてここに遷り王業を建てた。その後文王の時代になると、南国の江・漢・汝のあたりの諸侯まで従えるようになり、天下の三分の二は文王の徳治政治に帰することになる。 周南・召南の特色を知る手掛かりとして昔の書物にその記載を見ることができる。まず『周礼』鍾師に「射」つまり弓を射る礼の伴奏として「王は騶虞を奏し、諸候は貍首を奏し、卿大夫は采蘋を奏し、士は采蘩奏す」という記事がある。「貍首」は今の『詩経』にはない篇名であるが、他はみな召南に属する。そして「鍾師」は「金奏を掌する」とあることから、これらの音楽が「金奏」つまり金属楽器を用いたダイナミックなものであったことが想像されるがどの書物に関しても曖昧である。このうち「騶虞」篇は本文に見るように正しく狩りのことを詠った詩であり、射礼という長い間の伝承儀礼が持ち伝えてきた、『詩経』の中では最も古い類の古朴なものである。 周南・召南な各詩篇の特徴は「正風」と称された如く、激しい怨嗟や激情ではなく穏便な感情のもとに歌われた歌謡が多く、祭祀そのものを歌った詩や神霊をかけて祈願や予祝を歌ったものがほとんどである。それが後に儀式において金奏で歌われ洋洋として耳に満つるメロディーを伴うものであったことから考えてこの周南・召南の二南は、社祭に根ざした格調高い祭祀歌であった。この二南を読み返せば、そこにはすべてを文王の徳化には結びつけられない、もっと古い時代の風習がうたわれていることがわかる[要出典]。 さらに周南・召南は意識編集の跡の顕著なものである。ある祭歌楽の職能集団が伝えていたもの、召南が先になって周南は相和されたことを明らかにすることができるとし、この二南が本来一まとまりの祭歌楽であったことを指摘する。 周南・召南の「南」については何を意味するかについては未だ未定である。二公の徳教が岐より南国の地に行かれたことを言うとする[誰?]が、これはもとより漢儒の付会である[要出典]。また、「南は楽器の名でその楽調をいう語であろう」と言い、「南」は南人と呼ばれ苗人の用いる銅鼓の名であるとする説がある。
※この「周南・召南」の解説は、「十五国風」の解説の一部です。
「周南・召南」を含む「十五国風」の記事については、「十五国風」の概要を参照ください。
- 周南召南のページへのリンク