同志社・新島襄との関わりと支援
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「原六郎」の記事における「同志社・新島襄との関わりと支援」の解説
米国留学時代に新島襄と知り合う。のちに、校舎用、同志社大学設立用と多額の寄付を繰り返し、新島を支援する原を新島は「貴殿は吾人之恩人」と感謝している。 正金銀行頭取在任中の明治21年(1888年)、奈良吉野の山林地主で「大和の山林王」・「自由民権のパトロン」と呼ばれ、同志社の新島襄の後援者であった土倉庄三郎の長女・富子と、京都・祇園の中村楼で、新島の司式、京都府知事・北垣国道の媒酌により結婚。妻・富子は同志社女学校の出身であり、富子の兄弟姉妹たちも同志社で学んでいた。 新島襄が同志社に大学を設立運動のため上京した際、井上馨が呼びかけ人となり、明治21年(1888年)7月19日、大隈重信邸において、新島を支援するための会合が開催され、原も渋沢栄一と同じく最高額を寄付する。東京日日新聞第五〇一四号・明治21年(1888年)7月21日記事によれば内訳は、大隈重信:1,000円、井上馨:1,000円、青木周蔵:500円、渋沢栄一:6,000円、原六郎:6,000円、岩崎弥之助:5,000円、岩崎久弥:3,000円、平沼八太郎:2,500円、益田孝:2,000円、大倉喜八郎:2,000円、田中平八::2,000円の計35,000円とある。 また今出川キャンパスにあった「旧同志社大学生会館の場所にあった旧文化学科研究室は、通称「北寮」と言われ明治末年には「原学寮」といわれ、原の寄付によるものであった(同志社人物誌40 仲村研)」とのこと。 晩年、原は妻の影響から夫婦でキリスト教の洗礼を受けている。
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