受像機の普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 08:56 UTC 版)
「1964年東京オリンピックのレガシー」の記事における「受像機の普及」の解説
日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。テレビ受像機購入者が増えたため「テレビ番組」の視聴者も多くなった。そのため、娯楽性の高い「バラエティ番組」が増えたといわれる。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。メディアでの昭和世相史に関する記事等で「東京オリンピックの時期にカラーテレビが普及した」という趣旨の記述が見られることがあるが、1966年(昭和41年)まではカラーテレビの普及率は1%未満であり、1968年メキシコシティーオリンピックが行なわれた1968年(昭和43年)の調査でも5.4%で、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったのは1973年(昭和48年)である。 白黒テレビからカラーテレビへ(社会実情データ図録) また当時、アメリカ合衆国による沖縄統治下では、当時の琉球政府の大田政作主席が「早期復帰がかなわないのなら、せめて本土と同じ時間にテレビが見たい」 と関係各所に陳情、これによって、電電公社のマイクロ回線が那覇市まで延伸されることとなり、山岳回折を用いた見通し外通信によって建設が進められ、東京オリンピック直前の1964年9月1日に開通し、現在の沖縄県でも同時に放送された。なお、沖縄からは出場した選手は1人もいない。NOCを作って、沖縄として出場する案もあったが、島ぐるみ闘争の激化で「1地域としての五輪参加は、アメリカ合衆国による沖縄の恒久支配を意味する」との意見もあり、結局設立されなかった。結果的に沖縄住民の日本人意識を高め、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還へとつながっていった。
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