参加兵力について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:04 UTC 版)
日本側兵力は五百隻とも三百隻とも言われるが、どちらも日本側史料によるものではなくその実数や構成・兵数は不詳である。参考としては、五家の動員定数は合計1万7千ほど(島津1万、立花5千、宗1千、高橋5百、寺沢1千)であったが、実際の動員数はその八割程度とする見方があり、さらにそれまでの損耗と後方警備・撤退準備などのために巨済島等に残置した兵力もあるであろうと考えると、日本側の兵力は多く見積もっても1万を超えることはなかったのではないかと推測される。また、参加諸将は水軍の将ではないため、正規の軍船主体ではなく、各家の保有していた大小様々な兵站用の運送船を流用したものと考えるのが妥当と思われる。当時の和船は船体の構造的には軍船と運送船との大きな違いはなかったが、当然ながら上部の楯板などの装甲の有無という違いがある。この海戦では明・朝鮮軍の使用する投擲火器の効果が大であったとされており、その点も運送船の軍船流用を示しているように考えられる。なお、損失は二百隻(「朝鮮王朝実録」、「懲毖録」)とされる場合が多いが、これも日本側の記録によるものではない。島津家の公式記録『征韓録』には、船舶の損害について「夥し」とあるものの具体的な数字は上げられておらず、戦死者も二六名の名を挙げ「其外戦死の人々多し」とあるのみである。 明・朝鮮水軍についても具体的な参加兵力は不詳であるが、明水軍については『明史』に派遣の際に陳璘に与えられた兵力として兵一万三千余、戦艦数百とあり、さらに『乱中日記』に順天城攻めの最中に明水軍遊撃将王元周らが百余隻を率いて着到した記述がある。(ただし、これが当初の兵数に含まれるのか増援なのかは不明である。)他方、日本側史料に海戦時のものとして明船五六百隻、朝鮮船百隻との数字を上げたものがあり、参謀本部編纂の『日本戦史 朝鮮役』では合わせて五百隻の数字を採っている。朝鮮水軍については同時代史料である『懲毖録』に順天の戦い以前の兵数として八千余人とあり、また、『宣祖実録』に明水軍一万九千四百、朝鮮水軍七千三百二十八人とある。明・朝鮮軍を合わせると、順天での損耗を差し引いても本会戦の参加兵力は一万数千から二万程度になり、日本軍の兵力に対し概ね二倍程度の優位にあったことになろう。なお、明・朝鮮軍の喪失数は、明・朝鮮側史料にあるのは戦果報告ばかりのため不詳だが、日本側史料には『征韓録』に朝鮮船四隻、明船二隻を切り捕らえたや、島津家臣の川上久国が『泗川御在陣記』に露梁海戦について、立花宗茂は朝鮮船六十隻を捕獲したと記述がある。
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