原子力事業の成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 03:22 UTC 版)
「コンバッション・エンジニアリング」の記事における「原子力事業の成長」の解説
1955年には当時の社長アーサー・サントリーの下で原子力事業を開始した。これは、コネチカット州ウィンザーの施設での原子力潜水艦の開発に始まる。1950年代中盤から1960年代初めにかけて、コンバッション・エンジニアリングは連邦政府との契約に基づきアメリカ海軍の原子力潜水艦に核燃料を供給した。また、ウィンザーの原子力推進訓練施設に艦船用原子炉原型炉S1Cを設計・建造した。原型炉S1Cは研究開発用・訓練用原子炉として、10年以上に渡ってコンバッション・エンジニアリングによって運用された。コンバッション・エンジニアリングの契約満了後にはノルズ原子力研究所(英語版)(KAPL)が引き継ぎ、1990年代終わりから2000年代初めにかけて退役・廃炉となるまで運用していた。 1960年代には、コンバッション・エンジニアリングは原子力発電所向け蒸気設備の販売を開始した。最初の商用設備はミシガン州のコンシューマーズ・パワー・カンパニー(英語版)が設置したパリセード原子力発電所(英語版)に納入された。コンバッション・エンジニアリングはこの分野においてゼネラル・エレクトリックやウェスティングハウスと熾烈な競争を繰り広げた。 1960年代後半には電力会社への原子炉設備やウラン燃料の供給を開始した。1968年4月にはハウストン・ナチュラルガスとランチャーズ・エクスプロレーション&デベロップメントとの合弁を発表し、ニューメキシコ州の1000km2の鉱区でウラン探鉱を実施した。 コンバッション・エンジニアリングの原子炉設計は優れたものであると信頼を集めていた。これは、実際に競合するウェスティングハウスのものと比較して10%以上高い出力が得られたことで証明されている。この高効率を支えたのは、コンピュータを用いた炉心運転限界監視システム(Core Operating Limit Supervisory System, COLSS)であり、炉心に配置した300もの中性子検出器と独自のアルゴリズムによって高い出力密度を達成していた[要出典]。また、ウェスティングハウスとの間でチャタヌーガ工場にてウェスティングハウス向け原子炉格納容器および蒸気発生器を生産する契約を結び、多数納めていた。 コンバッション・エンジニアリングはウィンザーに洗練された原子炉運転訓練施設を設け、自社製品を導入した顧客のサポートを行っていた。
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