原シナイ文字碑文とセム系文字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 15:04 UTC 版)
「音素文字の歴史」の記事における「原シナイ文字碑文とセム系文字」の解説
原シナイ文字と見られる碑文が、シナイ半島にあるトルコ石採掘共同体であったサラービート・ル・ハーディムで見つかっている。最初の記録は紀元前6世紀の探険家、アレキサンドリアのコスマスによるものである。考古学者のFlinders Petrie(en)は1905年、古代エジプト期のトルコ石採掘坑を発掘していた際に、サラービート・ル・ハーディムで、あるスフィンクス像を発見した。このスフィンクス像は現在では紀元前1500年頃のものと考えられている。スフィンクス像の片面に碑文があり、前脚の間からもういっぽうの面にかけては翻訳されたエジプトヒエログリフがある。これらの碑文を原シナイ文字としている。Petrieは、この文字資料に含まれる記号は30に満たないので、音素文字である可能性があると考えた。また、書かれている言語がセム語である可能性もあると考えた。この採掘坑地域ではカナン(現在のレバノンとイスラエルにあたる)から来たセム人がファラオの命によって作業に従事していた。 1915年、エジプト学者のアラン・ガーディナー(en)は、原シナイ文字の記号と絵文字的なエジプトヒエログリフの間に類似性を認め、エジプト語での記号と同じ意味になるセム語で記号に呼び名をつけた。この名前はヘブライ文字の字の名前になる。ガーディナーの考えでは、紀元前2千年紀後半にはヘブライ人がカナンに住み付いていたのだから、類似がみられるのは当然であった。そしてガーディナーは、自身の仮定に基づいて碑文のひとつを翻訳した。この語は、母音を補って翻字するとバアラト (baʿalat) となる。バアラトは、シナイ地方での女神ハトホルのセム語での呼び名で、「女主人」を意味する。 スフィンクス像につづいてイスラエルとレバノンでなされた発見によれば、音素文字を発明したのがフェニキア語やヘブライ語の祖にあたるカナン語を話していたとカナン人であったことがうかがえる。カナン人はクレタ人、ヒッタイト人、エジプト人、バビロニア人のそれぞれの帝国を行き来して交易をしていた。カナン人は既存の表記体系にとらわれずに、より速く書け、たやすく学べ、曖昧さのない文字体系を求めた。Andrew Robinsonは、証明はされていないもののありうることとして、カナン人が最初の音素文字を創造したと書いている。 考古学者のJohn DarnellとDeborah Darnellは、エジプト西部の砂漠地帯の街道沿いで2つの碑文を発見した。これらの碑文は、表音的な文字で表記されているものとしては最初期のものである。文字の字形が表すものには、古代エジプト語とセム語を読める人々にとってはなじみ深いものも見られる。
※この「原シナイ文字碑文とセム系文字」の解説は、「音素文字の歴史」の解説の一部です。
「原シナイ文字碑文とセム系文字」を含む「音素文字の歴史」の記事については、「音素文字の歴史」の概要を参照ください。
- 原シナイ文字碑文とセム系文字のページへのリンク